2012年12月25日火曜日

お産におけるインフォームドコンセントは必要か

さらに六二歳氏は、助産婦の配慮によっておっかなびっくり出産参加した一人だが、「出産がこんなに大変なものとは知りませなんだ。一緒に坐って加勢してやってよかったですよ。私もああやって生まれてきたんだと思うと、享楽なんかでセックスやっちゃあいけんなあと思いましたよ」と、男女のセックス観にまでひるがえって感想を述べている。このように、夫や姉妹の出産への参加は、夫にとっては、父親への通過儀礼になり得るし、産婦の心身にとっても、非常に有意義である。

ただし、夫が出産に参加するか否かは、当事者たちの考えに任せるべきだと思う。私か言いたかったのは「これこれのメリットがある」ということだけで、二人が様々な事情で夫参加を望まないことだって、その夫婦の選択として正しいことだと思う。「ぜひ参加したい」という夫がいて、「ぜひ参加して欲しい」という妻がいるのが最適なのだが、一般的には「ぜひそばにいて」と望む奥さんがいて、夫は仕方なく、あるいはかっかなびっくり参加する場合が多いらしい。しかしそれでも、ほとんどの場合夫たちは、クライマックスには必死で妻の手をにぎり、励まして積極型に変身し、大部分の夫はわが子の誕生を、感動の涙で迎えるという。

インフォームドコンセントとは「説明と同意」と訳され、「医師は症状や治療について患者が十分理解するまで説明する。どの方法をとるかは患者が決める」(『朝日新聞』一九九〇年五月二二日)ことを言う。また、アメリカでは「医学研究のある段階では人体実験が必要となることを認め、これを道徳的、理性的に行うための九項目の基本要件として」(米本昌平著『先端医療革命』中公新書)インフォームドコンセントが義務づけられ、一九六四年のヘルシンキ宣言の中で条文化され、定着しているが、日本ではようやく昨今、脳死を前提とした臓器移植推進の気運の中で問題にされ始めたにすぎない。

なぜ欧米では当然とされ、日本では考えられなかったかについては、人権意識の違いとか医療保険制度の違いなどがあるだろう(『先端医療革命』にくわしい)。このように人権意識の低い社会では、インフォームドコンセントはおろか、しばしば医療内容についてたずねても答えてくれず、拒否しても必要医療として治療されることは日常茶飯事で起こりうる。とくに産科では、どちらかと言えば「女は黙って従うべき」という文化がある。それは産婦と産科医の関係がほとんどの場合、「どんな賢い女も、男にはかなわない」とされた男と女の関係であり、さらに、医者と患者という専門家と素人の関係の、二重の上下関係に縛りつけられた特殊な領域だからである。

2012年9月18日火曜日

定石どおりにことは運ばない

川寄さんの次の質問です。たとえば、不登校の人が来た場合、単純に学校に行くのがいいことであるとして、それを目標にカウンセリングしていこうというような人はいないと思いますが、しかし、実際のカウンセリングにおいては、ある種の変容が起こり、ある着地点に収束していくことが多いのも事実です。

不登校の人が学校をやめて新たな方向で人生を開いていくこともあれば、逆に学校に戻ってそこで意味のある経験を重ねていくといったように。

私たちはなるべくカウンセラーの思惑でそれをコントロールしないでいきたいと思ってやっていますが、あるかたちで着地したときに、カウンセラーとしては、『ああ、よかったなあ』と感じるときがあるのも事実です。また、こういった感触がなければ治療の『終結』という言葉を使わないと思います。

しかし、カウンセラーがよかったと感じる着地点が、もっと大きな視野から見たら、むしろ異なる方向での可能性を邪魔しているのではないか、カウンセリングを通してこういうかたちにおさまっていったことがほんとうによかったのか、という疑問がどこかにあります。このようなことに関してなにかご示唆していただければと思います。

心理療法家がクライエントにコミットしていく限り、着地点をまったく想定しないということはありえません。ただ、そういうのをもっていても、それを絶対視しないということがかんじんなのです。

「この人は学校へ行かなくても、自分でなにか有意義なことをやるのではないか」と思ったり、「この人は学校のことで相談に来ているけど、母親との関係が問題で、その改善のほうに向かうのではないか」とか、こういうことは誰でも思っています。

しかし、こちらからその上うにもっていこうとしてはいけない。こちらがそう思っても、間違っているかもしれない。思いこみの強い人は、どうしてもそちらにもっていこうとしがちですが、これは非常に危険なことです。

2012年8月23日木曜日

ミサイル問題では日本はどの程度の要求をすべきか

日本に届く危険のあるミサイルは、射程一〇〇〇キロから一三〇〇キロの「ノドン・ミサイル」である。しかし、日本はノドン・ミサイルの配備中止を国交正常化交渉はもとより、日朝正常化の条件にはしていない。もちろん、正常化交渉で話し合う議題にはなっているが、日本に届くミサイルを配備する国とは、国交正常化しないとは言っていないのである。つまり、日本はミサイルについてはあまり脅威とは考えていないことになる。

それなのに、テポドン・ミサイルの発射を理由に制裁措置を行ったのは、実は論理矛盾である。もし、それほど重大な問題であるのなら、当初からテポドン・ミサイルの開発中止を強く要求すべきであった。

実は、ミサイル問題では日本はどの程度の要求をすべきかは、かなり難しい問題である。ミサイル問題は、①開発②テスト③配備④輸出―の四つの問題を含んでいる。このうちどれを問題にするのか、あるいは全ての中止を求めるのかで交渉の内容が変わるからである。もし、日本がこれらの四つの問題全ての放棄を求めれば、北朝鮮はそれに対する対価を要求してくる。具体的には、金銭的補償を求めるはずである。だから、ミサイル問題は多額の資金を払うつもりがあるのなら要求してもいいが、そうでなければやぶ蛇になるだけの問題である。

アメリカは、ミサイル輸出の中止に重大な関心を示し、北朝鮮に中止を求めている。北朝鮮は輸出中止の代償として、一〇億ドルから四〇億ドルの補償を求めている。日本が、アメリカと歩調を合わせミサイルの中止を要求すれば。こうした補償を日本が払わされることになる可能性が高い。だが、ミサイル輸出中止の代償として現金を支払うのは最悪の選択である。新しいミサイルや武器の開発に資金を提供することになるからだ。

ところで、北朝鮮のミサイルはそれほど脅威であるのか。通常爆弾を積んでいる限りは、ミサイルの破壊力は小さい。たいした脅威ではない。また、もし日本に飛んでくるようなことがあれば、日米安保条約を発動し北朝鮮を米軍が総攻撃する方針を明らかにしておけば、抑止力としては十分である。さらに、北朝鮮がミサイル開発を進める限り、日本としては戦域ミサイル防衛(TMD)の開発を進めるとの方針を表明すればいいのである。

こうしてみると、テポドン・ミサイル発射に示した日本の対応は、北朝鮮に自制を求める意味では効果がめったと評価していいだろう。ただ、いたずらに混乱し感情的に騒いだのは問題を残した。

2012年7月16日月曜日

原則を逸脱する場合はよく理解して行動すること

考えてみれば、そちらのほうで新しい人間関係をつくっていけたのですから、私から手紙なんか受けとるよりずっといいわけです。

私が手紙を出していたなら、訪ねてきた同級生にもあまり多くを語ることはなかったかもしれません。そうすると、ますます私との関係ばかりになってしまいます。

では、そういうときには絶対に手紙を出さないほうがいいかというと、それもまた一概には言えないのがむずかしいところです。

このケースでは、たまたま同級生が訪ねてきていい結果になりましたが、そう都合よく、いつでもそういう人があらわれてくれるわけではありません。

先に紹介した例では、十三年目に返事が来て、私か出した手紙がずっとその人の心の支えになっていたということですから、手紙を出したことも意義はあったわけです。

することは同じでも、時と場合によって、そのコミットのレベルが浅くもなれば、深くもなりますから、そのあたりの判断は非常にむずかしいところで、最後には勘に頼るしかないのではないかと思います。

ただ、絶対に忘れてならないのは、できるだけそういうことはするなという原則です。原則を逸脱することをしても、そのことをわかった上でやるのと、知らずにやるのとでは、結果も違ってきます。

2012年6月20日水曜日

自分の資質を疑ってみる

学校のことで相談に来ている人に対し、心理療法家が着地点を母親との関係に想定したとすると、「お母さんをどう思うか」とか、「お母さんはどうしているか」とか、母親のことを熱心に聴こうとします。そうすると、それがクライエントに対して一つの方向づけになってしまって、ゆがめられてしまう可能性があるわけです。

自分の思っている着地点と違うことが起こったときは、また考えなおさなければなりません。そのときに「なぜ自分はそういう着地点を考えたのだろう」と考えることで、それまで気づいていなかった自分のパターンがわがったり、あるいは再認識したりします。こういうことが、経験を重ねるということです。

また、相手にそういうことを言ったりするのも、意味があります。「私はこうなると思っていたけど、違うことが起こったな」と言えば、クライエントにもなんらかの考える機会が与えられることになります。

このようにしていけば、たとえ着地点を考えていても、それによって別の可能性の芽が摘まれることはなくなります。着地点というのは、むしろ考えて当たり前です。無為でいるということは、なにも考えないということではありません。

私自身、クライエントに対したときには、いろいろなことを考えています。着地点も一つではなく、幾種類も考える。こちらの読みと相手の考え方が一致したときはスムーズに終わりますが、そうはいかないときも少なくありません。私は、だからこそこの仕事がおもしろいと感じているくらいです。

勝負ごとでもなんでも、いつも定石どおりにことが運んでいたら、おもしろくもなんともありません。スポーツにしても、そういつも作戦どおりにいくとは限りません。だから、やりがいがあるわけです。

自分からクライエントを選んで、むずかしい人を回避していたら、それはこちらの思惑どおりに終わることが多いでしょう。しかし、だから心理療法家としての技量がすぐれているということにはなりません。こちらの着地点とクライエントの着地点が違うことによって、自分自身も大きくなっていきます。やはり、いろいろな経験を重ねることが大切です。自分の資質を疑いながら、心理療法家も成長していくのです。

いかに豪腕ピッチャーでも、力関係からしたら三振をとるのが当たり前と思っているバッターに打たれたりするから、次は考えるわけです。カウンセリングでもそういう勝負的要因がずっとはたらいています。

それから、「ああ、よかったなあ」と感じることに関してですが、あまりこちらが考えていたとおりにスイスイといってしまったりすると、どうも浅いレベルでまとめられてしまったような気がして、「これは、ちょっと読みが浅かったかな」と考えてしまいます。

うまくいかなければ、自分の資質を疑うし、うまくいっても、これはまずかったのではないかと疑うし、その意味ではなかなかやっかいな職業ですが、しかし、スポーツマンなどもみんなそうだと思います。あるところで満足したり、慢心したりしたら、それは現役引退の時期です。

説明しすぎると・・・

私はあるクライエントから、「先生はなにもしない人だと思ったけど、ほんとうになにもしませんね」と言われたことがあります。そのとき私は「ほんまにそうやなあ」と言ったのですが、まさにそれが私たちの原則で、それによってその人は自分で頑張っていくわけです。

だから、クライエントからそういうことを言われたら、私にとっては成功なのです。クライエントがそういうことを言えるようになったこと自体、自立してきた証拠です。

対応でもっともまずいのは、「ほんとうは手紙を出そうと思ったんだけど、出すとあなたが依存的になると思ったからやめたんだ」とかなんとか、あれこれ説明することです。

あまりしつこく説明すると、こちらのやっていることが絶対的に正しいということになってきて、クライエントが文句を言えなくなってしまいます。それでは自我が鍛えられていきません。だから、相手に文句の言える余地を残しておくほうがいいわけです。

教師や親がよくやる失敗は、あまりきれいに説明しすぎることです。これでは子どもは口で反論できませんから、しかたなく手が出る、足が出るということになり、校内暴力や家庭内暴力に発展するわけです。子どもにしたら、暴れるよりしようがない。

周囲がそのように仕向けてしまっているのです。言葉で攻撃できる余地を残すことが必要です。だめなものは、理屈抜きではっきりと「だめ」と言ってやることも必要です。

カウンセリングの原則

どこまでが浅く、どこからが深いかということは、はっきりした境界線があるわけではありませんから、私たちはつねにそういう迷いの中にあるとも言えます。

最低限の条件として、原則をきっちりわきまえていなければならないし、できる限り原則の中でやっているわけですが、ときとして、ここははずしたほうがいいかなという場合もある。その判断は非常にむずかしいものです。

クライエントの中には、「自分がこう言ったら、先生はお金を貸してくれるはずだ」と思っている人もいます。しかし、私だちとしては、そのような期待に沿うわけにはいきません。そういうことで、私自身、非常につらい思いをした経験があります。

クライエントの話があまり悲しい内容だったので、帰宅してから、その人に、「あなたのお話をただ聴いているだけでなにもできませんでしたが、それが私には非常につらかった。しかし、頑張って生きてください」というようなことを手紙に書こうとしました。

私の手紙を書こうとしているという気持ちは、不思議に相手も気づいていて、その人は、帰ってから郵便受けばかり見にいっていました。

ところが、私は手紙を書きたい気持ちをぐっと抑えて、書くのをやめました。カウンセリングの原則からいっても、そういう手紙はできるだけ書いてはいけないと思ったのです。

ところが、このときに、偶然とは思えないようなことが起こりました。その人が郵便受けをいつも見にいっていたけど、まったく手紙が来ていませんから、「なんだ、河合もわかったような顔しているけど、ほんとうに同情してくれているわけじゃないんだ」と思って悲観しているところに、昔の同級生がひょっこり訪ねてきたのです。それで、その同級生といろいろ話しあって、しだいに友情を深めていきました。

質問によって答える

たとえば、「私は妻とこんな喧嘩をしました。あんなやつとは離婚したほうがいいでしょうか」と相談されたとき、こちらから「うーん、離婚したほうがいいと思いますか」と聞き返したりすることがよくあります。

こういうのを「アンサリング・バイ・アスキング」(問いかけによる答え)といって、答えているようだけど、なにも答えてはいない。すると、クライエントはさらにその先を自分で考えていかなければならない。

その人が自分で考えて成長していくわけですから、これはこれで意味のある応答法です。「それは絶対に離婚しなさい」とか、「絶対に別れるべきではありません」などというのは、深いレベルでのコミットにはなっていません。

しかし、セラピストが「アンサリングーバイーアスキング」ばかり形式的にやっていると、だんだん相手を突っぱねたかたちになってきて、治療者はコミットしていないことになる。

そうすると、クライエントは腹立たしくなってきて、来なくなります。かといって、コミットが「よけいなお世話」的な浅いレベルになってしまってもいけない。川寄さんが考えておられるのも、そこの微妙なところだと思います。

クライエントがいくらお金に困っているからといって、絶対にお金を貸すようなことをしてはいけない。これはカウンセリングの鉄則ですが、それと似たようなコミットのしかたをして失敗している例がかなりあります。

おもしろいのは、フロイト自身、そういうことを絶対にしてはいけないということをさんざん書いていますが、彼自身、かつてはクライエントにご飯を食べさせたり、お金を貸したりしているのです。

その誤りにあとで気づいて、そういうことを書くようになるわけですが、ただ、そういう規則破りも、ときとして意味をもつことがあります。

しかし、意味をもつことがあるということは、大失敗する可能性もあるということです。コミットに失敗したら、クライエントを死なせてしまうことにもなりかねませんから、よほど注意が必要です。

コミットするというのは、日本の美学に反するところがある。

日本人は昔から唯一の神ではなくて、森羅万象に尊崇の念を抱いて生きてきました。自然のまにまに生きている人間はコミットはしません。

コミットするというのは、日本の美学に反するところがある。だからでしょうか、日本語には「コミット」に対応する適当な訳語が見つかりません。

川寄さんならずとも、改めて「コミットとはなにか」と聞かれても、日本人ははっきり答えることができないわけです。

しかし、日本もだんだん西洋化されてきましたから、われわれとしても、コミットの意義を考えてみる必要が出てきました。

「コミット」がプラスの意味に使われるようになると、どうしてもコミットのレベルが浅くなりがちです。たとえば、「借金で困っている」というクライエントが来たときに、「では、私がお金を貸しましょう」と言ったのでは、クライエントはそれによりかかってきて根本的な解決にはなりません。

このようなコミットのしかたではレベルが低く、いわば「小さな親切、大きなお世話」といった感じになってきます。

私たちがクライエントにコミットする場合には、川寄さんも言われるように、外的現実ではなく、心理的にコミットすることになります。借金で困る人生を私自身が内的にどれほど生きるかということになります。

通常、コミットという言葉が外的現実についてのみ使われすぎていますから、コミットのレベルというものをよく考えなければならないでしょう。

「コミット」とはなにか?

川寄克哲さんは学習院大学で助教授として教鞭をとるかたわら、夢分析などによるカウンセリングをされておられますが、「コミット」の意味についてのご質問を受けました。

「カウンセリングに関して『コミット』という言葉はとても重要なものと思いますし、実際、われわれはこの言葉をよく使うと思います。

ところが、『コミットとはなんですか』と聞かれるとなかなかうまく答えられません。『クライエントさんにコミットする』という場合、これは単にクライエントに対して熱意をもって治療者が頑張るというものではないでしょう。

私としては、たとえば、クライエントが夢を見るレベルに対して、同様に治療者も自身が夢を見るようなレベルでそこにかかわっていくことといった印象をもっています。

つまり、カウンセラーからクライエントへという単純な横軸ではなく、クライエント自身が有する内的なものという縦軸に対して、カウンセラーも同様の縦軸をもってそれを重ねあわせていくというようなイメージを私はもっているのですが、あまり、うまくない表現だなあと感じます。河合先生、コミットとはなんでしょうか」

「コミット」とは一般的には「ゆだねる」とか「かかわっていく」とか訳していますが、この言葉の本来の意味は、アメリカの友だちから聞いたところによると、いまはポジティブに使われているけれど昔はネガティブな意味だったということです。

キリスト教文化圏では、神というのは絶対の存在です。だから、みんな神の言うとおりに生きていたらいい、人間が下手にコミットするとろくなことはないというのが本来の意味のようです。

たとえば、commit suicideと言えば「自殺する」ですし、commit ulteryと言えば「不倫する」ことで、commit a crimeは「罪を犯す」こと……どれもいい意味ではありません。

ようするに、神の意からはずれた人がおかしなことをするのがコミットで、したがって本来はマイナスのイメージだった。

ところが、近代以降、人間の自我が強くなり、神と離れていったときに、人間はもっといろいろなことに自分からコミットしていかなくてはならないのではないかという考え方が出てきて、しだいにプラスのイメージに変わっていったというわけです。

自分が山を乗り越えようとしていることに気づいていない場合が多い。

高校生のクライエントがミュージシャンのなんとかが好きだと言ったからといって、それを私たちが彼らのように「おっかけ」までやって全部聴いていたら、たまったものではありません。

たとえば、「太宰治が好きだ」と言うクライエントの心情に共感しようと思ったら、その人に「太宰のどんなところが好きですか」と聞けばいいわけです。それだけでも、共感の限界をかなりふくらませることはできます。

もちろん、むずかしいクライエントの場合、その程度ではとても追いつきませんから、そのCDを買いこんできて聴いてみることも必要です。私は、むずかしい場合はそうしています。

それで、次の面接のとき、「あなたが言っていたミュージシャンのCDを聴いたけど、ちっともおもしろくなかったよ」などと言うと、「なに言ってるんですか、先生」と、そのおもしろさについて、とうとうと教えてくれます。

そうすると、「ああ、この子はこんなことに感心しているのだ」ということで、その子の考えや生き方などがわかって、こちらの共感がさらに進んでいきます。

あるとき、「私の心境は太宰の『人間失格』です」と言った人がいました。ところが、同じ日に別の人が来て、「私は『人間失格』がすごく好きです」と言う。こういうことがよくあります。個人的には関係ない複数の人が、三島の『金閣寺』に感動したとか、同じようなことを言ったりします。

それだけ重なるからには、そこになにかしらのメッセージがあるはずですから、そういうときはどんなに忙しくても、必ず読んでみます。

どんなに資質があっても限界は誰でも感じるものですし、それを破るのは、やはり努力です。よくクライエントから、「あの先生はぽくのことをわかってない。どうしたらいいですか」というような相談を受けることがありますが、カウンセラーが自分のことを共感してくれないと思ったときには、そのことをきちんと言ったほうがいい。

ただ、クライエントがそう思うときには、また別の意味もあって、自分が一つの山を乗り越えるのが苦しいときには、ほとんどの人がそう思います。

それは、相手のせいにするというより、自分が山を乗り越えようとしていることに気づいていない場合が多い。しかし、実際に苦しいから、それを、「どうも先生はわかっていないらしい」とか、「どうもこのごろ熱心でなくなったようだ」とか、そういうふうに感じてしまうわけです。

だから、クライエントは、そう思ったときにはカウンセラーにそのことを言ってみればいい。そうすれば相手からも答えがあって、それでお互いの距離が縮まってきます。

どこまで共感できるか

岩宮さんもまた、自分の心理療法家としての資質や器量を問題にされていますが、経験を積めば積むほど、こうした疑問が出てくるものなのです。

「治療者の個人的な体験の中に共感の種を見つけ、それを拡大し、イメージをふくらませることで理解を深めるだけでは、共感に限界があるケースも多いように思います。専門的知識で補える部分もあるとは思いますが、個人の体験を超えたところでクライエントに共感していくためには、どのような方法が考えられるのか教えてください」

まずはクライエントに共感することからはじめますが、そのとき、誰でも自分の個人的体験から出発します。しかし、自分では実際に体験していないことでも、自分の体験をふくらませることで、そうとうなところまで入っていけます。男であっても、女の人にも共感できます。

それに、私たちは専門知識を学び、特別の訓練も受けていますから、自分の体験をさらに理論的にもふくらませていくことができます。

もちろん、岩宮さんはそういうことも理解した上で、それでもなお限界があるのではないかと書いておられるわけですが、そのとおりです。どんなに訓練を受け、いかに多くの経験を積んでも、全部がわかるなどということはありえません。

カウンセリングを受けにくるような人は、みんなそれぞれに深い問題を抱えていますから、私たちのやっていることは、つねに新しい発見の連続であり、新しい限界との遭遇とも言えるわけです。そこを共感していくためには、さらに新しい努力が必要になってくるわけです。

私の場合、なかなか共感できなかったのが、男性の同性愛でした。だから、なんとか理解しようと、三島由紀夫の小説なども読んだりして、私なりにずいぶん努力しました。この仕事を一生懸命やろうとする限りは、つねにこうした努力を欠かすことはできません。

ただ、その努力にも仕方があって、なんでも自分で実際に体験してみる必要はありません。同性愛の心情を理解するためだからといって、自分で実際に同性愛を体験する必要はありません。ものごとの理解というのは、見るとか聞くとか読むとか、いろいろな方法でふくらませることができます。

一山越えたあと

質問の中で岩宮さんは、「実感としては、終結時期を現実の変化にゆだねることのできないような、長期間におよぶ心理療法の需要が増えてきているように思います」と述べておられますが、実際にそのとおりです。

たとえば階段をのぼれない人が来たとします。そして、会っているうちに階段がのぼれるようになったとしても、なかなかそこで終わりとはなりません。

そのことがきっかけで、さらに深い課題に挑戦しようとすることが多いからです。そういう事例がたしかに増えてきていて、私たちも、そこで終わりにはできない。

だから、私は、階段がのぽれない人がのぼれるようになったときにも、こちらから「では、これで終わりにしましょう」と言わず、「一山越えましたね」と言うようにしています。そうすると、「では、このへんで」と言って終わっていく人と、さらに二山目に挑む人がいます。実際に、私か「一山越えましたね」と言ったところ、「はい、先生、これから二山も三山もいきますよ」と言った人もいました。

もっとも、次に行くのだったら、治療者はクライエントに、なんのために、なにをどうしようとするのかをはっきりと認識させておく必要があります。クライエントはI山越えて二山目に入るのは苦しいから、うろうろして時間をつぶそうとしたりするからです。

その意味でも、料金は取っていないとだめなのです。これが無料だったら、クライエントはいつまでもぐだぐだして、なかなか先に進もうとはしないでしょう。しかし、その人がお金を払っていたら、払った分に見合う時間を使わなければ損ですから、先に進もうとします。

行動療法をやる人は、クライエントの内面はあまり問題にしません。

私たちは全体的にいろいろなことを理解しながらやっていこうとするけど、行動療法をやる人は、クライエントの内面はあまり問題にしません。

それで高いところにも平気でのぽれるようになりますから、すごくわかりやすいし、効果も早く出ますから、いまアメリカではこの行動療法が非常にさかんです。これこそほんものの心理療法だと主張する人も少なくありません。

その点、私たちの療法は、「しよう」、「つくろう」とはしないやり方ですから、とにかく時間がかかり、敬遠されがちです。

ところが、行動療法も内面的なことも両方わかる心理療法家から、こんな話を聞いたことがあります。その大はアメリカでセラピーをしているのですが、ある症状が行動療法によってすごく早く治ったので喜んでいたら、何年かたって、その大がまた同じ症状が出たということでやってきた。

そこで、また行動療法をやろうとしたところ、「先生、もうそれはいいです」と言う。「では、どうしてほしいのですか」と聞いたら、「私の話を聴いてほしい」。それでその療法家は、長い目で見たら、話を聴いたほうがいいかもしれないと言っていました。

しかし、このあたりを評して、「行動療法は表面的だ。われわれは内面の深いことがわかっている」と言う大もいますが、これもそう簡単には言えないことです。

階段を三段しかのぼれなかった大が、五段までのぼれたというのは、考えてみればすごい変化ですが、そういうことをやっていることによって、その人の内面や心が大きく変わっているかもしれないからです。

行動療法をやっている大はそういうことをあまり問題にしませんが、内部ではそういう変化が起こっているのかもしれない。

また、一概に行動だから浅い、心のはたらきだから深いとも言えません。「あいつは嫌いだ。殺してやる」と言うのは内面的ですが、言っていることはきわめて表面的とも言えます。

私は、行動療法と私たちがやっていることとは、ひょっとしたらあまり違わないかもしれないと思うこともありますが、いずれにせよ、症状だけに注目して、それだけで喜んでいたのではだめで、先ほどの両方できる先生も、心も必ずパラレルになっていて、行動療法によって階段を五段までのぼれるようになった人も、「小さいころには・・・」というように自分のことを話すようになるとのことです。

私たちは、高所恐怖症の人が来ても、階段をのぽらせたりはしません。「一歩ものぼれません」というクライエントの話を「無為」に聴いているだけです。

そして、次に来たときも、同じことをくり返します。こちらがほんとうに無為になって聴いていればたいてい治りますが、うまくいかない場合も出てきます。それは、治療者がほんとうにそこにいないからです。

相手が階段が一歩ものぽれないということを聴いて無為でいるというのは、普通の人にとっては非常にむずかしいことですが、その大変なことをやるのがプロです。

無為になって聴く

「症状の消失とか現実的な成果とかを直接的にはめざさない心理療法もあるように思います。もちろん、基本的には現実レベルの改善をめざして心理療法を行っているのですが、実感としては、終結時期を現実の変化にゆだねることのできないような、長期間におよぶ心理療法の需要が増えてきているように思います。このような心理療法の存在する意義を教えていただきたい」

岩宮さんの二つ目の質問ですが、先に取りあげた例でもわかるように、自分の臭いが消えたと喜んでいたら、クライエントが自殺したという例もありますから、臭いを消すほうばかりに目を奪われていると危険です。

かといって、その人が人生をどう生きているかが問題だから、症状なんか問題ではないという考え方も間違いです。

症状にとらわれすぎないほうがいいけれど、症状も人生の一部ですから、それを無視したり、忘れたりしてもいけない。そのあたりの加減がむずかしいところです。

心理療法にもいろいろな種類があって、中には、現実のほうにばかり注目するという療法もあります。もっともわかりやすいのは、行動療法です。

たとえば高所恐怖症で、階段をのぼるのもこわいという人がいます。行動療法ですと、階段の三段目から上がこわいとすると、まず二段目までのぼらせて、三段目に片足を置かせ、こわかったら無理せずそこでやめる。

努力して三段目までのぼれるようになったら、四段目をやるというように、段階的に上げていって、屋上まで行けるようになったらおしまい。このように、症状の消失だけをねらった療法もあります。

現実の中でクライエントの自我を鍛えていくことに主眼をおく

日本人が分析を受けるために自分の夢をもっていくと、向こうの分析家はその夢だけを見て、「うーん、これは深い。そうとうな人に違いない」と思ってしまう。

しかし、実際は自我が弱いためにそういうところが夢に出てきているだけなのに、そこを勘違いして、日本人を過大評価してしまう。だから、岩宮さんも言っておられるとおり、そのへんの見分けが非常にむずかしい。

私の場合、日本人のそういうところがわかっていますから、そんなわかりやすくおもしろい夢が出てきたら、むしろ警戒し、夢の話はやめて、現実の話をさせるようにします。つまり、そうやって自我を鍛えるわけです。

しかし、深い夢を見る人は、自我のほうを重視すると苦しいから、来なくなったりします。そこで、自我を鍛えながら、適当に夢も聴いたりしていく。

そのときに、どんなにおもしろい夢をもってきても、こちらがあまり感激しなければいいのです。夢の話は適当に聴いておいて、それにはあまりふれず、「このごろ、どうしてますか」とかいうように、現実の話を聴いていく。

明恵上人(鎌倉時代の僧。自分の夢を記録しつづけて『夢記』をあらわしたことで知られる)のように強力な自我をもちつつ、深い夢を見るのはすごいと思いますが、自我が弱いために、夢がいきいきとしたものになるという場合は、注意を要します。

思春期の夢には、現実とこんがらかって、どこまでが夢でどこまでが現実かわからなくなるようなケースがありますが、大人になってもそれをやっている人がいます。

そこを見きわめることがかんじんでしょう。夢や箱庭を現実につなげていこうとするより、現実の中でクライエントの自我を鍛えていくことに主眼をおいて会っていったほうがいいでしょう。自我の確立につれて、そういう夢もしだいに見なくなると思います。

個人的無意識の内容があらわれる

日本の社会は西洋などと比較すると、かなり相互依存的なところがありますから、そのへんが多少あいまいでも生きていくことができます。

むしろ、あまり明確な判断を示したりすると評判が悪くなって、生きにくくなります。だから、あまりそういう意識的なものを前面に出さないで生きている人が多い。

ここでユングの考える心の構造を簡単に解説します。自我がある程度の強さをもっている人は、イメージの世界に注目すると、まず個人的無意識の内容があらわれてきます。

それについての長い分析経験を経た後に、それより深い普遍的無意識にイメージを通じて接することになります。そうなると、そのイメージは神話的な内容になってくるし、それにともなう感情体験も深くなってきます。

そのような経過を経ずに、なんらかの条件によって、普遍的無意識の力が強くなって、それが直接的に自我に作用してくると、そうとうな心理的危機におちいり、ときには精神病的な症状を示すことさえあります。

ところが、日本人の中には、西洋的に言えば弱い自我をもち、無意識の深い世界との接触がありながら、周囲の人だちとの微妙なバランスの中に生きている人がいます。

このような人はイメージも普遍的無意識の内容が生じてくるので、非常に深いのですが、それを自我に統合して生きていくということはありません。

ある意味で言うと「柳に風」と生きているわけで、現実生活のほうはなんにも変わらないのです。このような人の場合、周囲の人がおもしろい人だと思いながら、少しずつ迷惑を受けたりしていることがよくあります。

こんな人の場合は、夢の内容はたしかに深いと言えますが、だからと言ってこの人が有能であるとは言いがたいし、夢の分析を通じて変化していくということがあまり期待できないのです。

この点で、日本人がスイスやアメリカに行ったときに、向こうの人からよく誤解され、すごい才能をもった人が来たと思われて、「こういう人こそ分析家になるべきだ」などとほめられる。

2012年5月16日水曜日

成果主義導入の問題点は「ビジョンやリーダーシップ」にある

成果主義導入の問題点として、1.総額人件費を抑えるために利用する目的のはき違え、2.目標管理制度により、安全志向、短頭志向に陥り、仕事の質やビジョンといった抽象的な領域の軽視、が生じている。しかし、そもそも成果主義を論じるならば、制度的な弊害以前に経営者の資質が聞かれなければならない。

「ビジョンのない経営者が多すぎます。このビジネスをどうしたいかと尋ねても、”儲かるようにしたい”なんて答えしか返せない。そんなのはビジョンじやありません。いったいどんな顧客に対してどんな価値を提供したいのか、どんな人が必要で、どう働いてもらいたいのか」と、高橋教授は経営者を厳しく叱責しています。

成果主義を導入するならば、まず経営者がしっかりとしたビジョンやリーダーシップを持たなければなりません。さらに、経営者としての評価を自ら厳しくしていかないと、うまく機能するはずがないのです。成果主義に従業員のモチベーションを高める効果がまったく無いとはいいませんが、さまざまなリスクとも背中合わせです。富士通の秋草発言は、それを示しています。

富士通は成果主義賃金のパイオニア企業だった

富士通は成果主義賃金のパイオニア

さきほど成果主義賃金のことに触れましたが、富士通は成果主義導入の先駆的企業です。年功序列を廃して、過去の実績や結果から決まった給料や年俸制、職務や責任に基づく職務給、それに期首に上司との面談で申告した目標達成度を計る目標管理制度などを組み合わせて、賃金、一時金、役職を決定しています。

一九九三年に成果主義を導入して、九三年から九八年上期までは成果主義を社内の共有規則とする第一のステージ。九八年下期から二〇〇〇年までが目標を高く設定してそれをやりぬくハイパフォーマーを増やす第二ステージ。二〇〇一年からは第三ステージで達成重視が低くなってきたので、目標を高く置き、その達成度でなく成果そのものを評価するつもりだ、と同社の総務・人事担当役員は説明しました。

さきほどの秋草発言とからめれば、すでに10年近く成果主義を導入し、第三ステージに進んでいるにもかかわらず、従業員が働かないと社長は認識していたことになります。成果主義が誤りなのか、社長をはじめとした経営陣が誤っているのか、どちらしても根本的な問題です。場合によっては社長以下役員の退陣という事態に発展してもおかしくなかった。しかし富士通と秋草社長は何もしませんでした。