2012年6月20日水曜日

現実の中でクライエントの自我を鍛えていくことに主眼をおく

日本人が分析を受けるために自分の夢をもっていくと、向こうの分析家はその夢だけを見て、「うーん、これは深い。そうとうな人に違いない」と思ってしまう。

しかし、実際は自我が弱いためにそういうところが夢に出てきているだけなのに、そこを勘違いして、日本人を過大評価してしまう。だから、岩宮さんも言っておられるとおり、そのへんの見分けが非常にむずかしい。

私の場合、日本人のそういうところがわかっていますから、そんなわかりやすくおもしろい夢が出てきたら、むしろ警戒し、夢の話はやめて、現実の話をさせるようにします。つまり、そうやって自我を鍛えるわけです。

しかし、深い夢を見る人は、自我のほうを重視すると苦しいから、来なくなったりします。そこで、自我を鍛えながら、適当に夢も聴いたりしていく。

そのときに、どんなにおもしろい夢をもってきても、こちらがあまり感激しなければいいのです。夢の話は適当に聴いておいて、それにはあまりふれず、「このごろ、どうしてますか」とかいうように、現実の話を聴いていく。

明恵上人(鎌倉時代の僧。自分の夢を記録しつづけて『夢記』をあらわしたことで知られる)のように強力な自我をもちつつ、深い夢を見るのはすごいと思いますが、自我が弱いために、夢がいきいきとしたものになるという場合は、注意を要します。

思春期の夢には、現実とこんがらかって、どこまでが夢でどこまでが現実かわからなくなるようなケースがありますが、大人になってもそれをやっている人がいます。

そこを見きわめることがかんじんでしょう。夢や箱庭を現実につなげていこうとするより、現実の中でクライエントの自我を鍛えていくことに主眼をおいて会っていったほうがいいでしょう。自我の確立につれて、そういう夢もしだいに見なくなると思います。