2016年1月6日水曜日

戦略家を養成できないのが日本の「もろさ」

優れた戦略家を外国人に頼るのではなく、自前で養成する段になると、とたんに日本人は「もろさ」を露呈する。外交官の松岡洋右や軍人の石原莞爾や東條英機はその理念型である。

松岡洋右は当人は英米、ドイツ、ソ連を向こうに回して、壮大な戦略を描いたつもりになってはいたが、実際にはヒトラーやスターリンの手の内で踊っていたことは明らかで、松岡自身ドイツとの同盟を悔いながら人生を終えている。

昭和の日本の陸海軍軍人の思考の固さも同様で、日本の文明は自前では戦略家を育てることが苦手なのである。これは今日の政治家や高級官僚も同様で、ソニーやトヨタといった一部の国際的企業のトップを除けば、戦略家はわが国では皆無に等しいのである。

むろん、松岡洋右をはじめとして戦前戦後の外交官やエリート軍人、高級官僚はすべてアメリカやヨーロッパに留学経験があるにもかかわらずそうなのである。これは裏返すと、日本の無常感文明の持つ「慣性の法則」がどれほど強いかを示している。「慣性の法則」によって、思考の柔軟性が失われ、思考がステレオタイプ化するのである。

エリート官僚が西欧でいかに優れた戦略思考を学んできても、日本の官僚組織の持つ「過去の反復」という強烈な「慣性の法則」がたちどころにそれを無化するのである。政治家は、村落共同体的な義理人情や談合や「足して二で割る」調整を嫌い、西欧的な合理主義と戦略思考に徹する人ほど選挙民に嫌われて落選するのである。

日本の歴史を見ると、文字通り存亡がかかる乱世においてさえ、源義経や織田信長のような革命的な戦略家が生まれても、それを周囲が妬んだり、部下がついてゆけなくなって離反したりするのである。平時はなおさらで、優れた戦略家を育てる精神的土壌を教育機関も官僚組織も選挙民も持たないので、日本では国際的企業の一部にしか戦略家はいないのである。