2015年2月4日水曜日

福祉切り下げは必至

少子化・高齢化は、大勢として明治以来の日本の近代化、工業化、そして特に戦後の高度成長による欧米先進国をも凌駕する所得水準の向上によってもたらされたものである。この実績、成果を逆戻りさせることはできない。

特に高齢化は人類の夢であり、それ自体は他のどの国もなしえなかった日本の誇るべきことである。「もっと早く死ぬように」という政策など、考えられるわけがなかろう。

少子化もまた、戦前の富国強兵策並みに「産めよ、増やせよ」と政府の掛け声で逆転させるような事柄ではない。いかに掛け声をかけても、また手厚い児童手当を支給したりしても、平均の産児数が二人を超えて三人へと回復していく可能性は少ないだろう。

個々人の立場でいえば、子どもを何人産むかは他からとやかくいわれる筋合いではない。「人口が減って何か悪いか」と開き直ることだってできよう。

ただ、「人口半減」の日本は、宅地も道路も公園も一人当たりでは二倍になって、過密化や住宅難のない住みやすい国になるなどと、のどかに考えられる状態では決してない。

半減した日本の人口の構成を考えると、「広くなった日本」のばら色はあせてしまう。よくいわれる「働き手二人で一人のお年寄りを支える」という高齢者の重圧は、確かに現実のものとなるだろう。あるいはもう少し深刻な状態にまで進むかもしれない。

そうした状況への対応として容易に想像しうるのは、「福祉水準の切り下げ」である。つまり、税金と社会保険料を合わせたいわゆる国民負担率が、現在の約三七パーセントを大きく上回り、五〇パ-セント、六〇パーセントへと上かっていくことは、その負担の集中する生産年齢層には耐えられまい。

勤労意欲を殺ぐなどの副作用もともなう。国民経済全体にとっては、貯蓄・投資水準の激減など、より大きな困難をもたらす恐れがあろう。そもそもそうした増税は、政治的にまず不可能であろう。

であれば、所得保障(年金)と医療補助を中心とする高齢者のための社会保障水準を引き下げる以外にはなかろう。財政運営上は他の支出から社会保障費への振り替えが考えられる。

防衛費を削る、役人の数を減らすというのも選択肢としてはありえよう。しかし、防衛費をたとえゼロにしても、現在の高齢者向き社会保障制度を負担増なしにこの先半世紀に向け維持することは困難だろう。

「高齢者」と呼んで公的に扶助する年齢層を「六十五歳以上」ではなく「七十歳以上」へと後退させることを含め、二十~三十年かけて徐々に「切り下げ」を進めていかざるを得まい。