2016年4月4日月曜日

無意識下の知覚の役割

心理学者はさらに一歩進んで、知覚的防衛体制という、それ自体すでに複雑な心理的過程を合むために、明確化できなかったサブ・セプションのプロセスを、純粋に実験的な事態に持ち込むことによりいっそう単純化して、そのしくみを明らかにしようとした。

そのために、用いた単語はすべて実生活を離れた無意味綴りのみ材料に選び、またその字数も完全に等しくした。その無意味綴りの単語二十個のうち半分は、実験に先立って、十数回にわたって電気ショックで条件づけされた。

条件づけとは、それらの単語が呈示されるたびごとに、被験者には軽い電気ショックがかけられ、その結果、その単語が呈示されると、電気ショックを伴わないでもそれだけで、被験者は電気ショックをかけられた時と同様の状態になることを意味する。実際には、それは顕著な皮膚電気反射の発生で示された。

さて、被験者は、さきほどの実験と同様な方法で、無意味綴りの単語の認知閥を測られたわけであるが、その際、同時に皮膚電気反射の大きさも測定した。結果は、やはり、無意識下の知覚というものの存在を明瞭に示すものだった。

というのも、無意味綴りを被験者が正しく読みとることができるはるか前に、皮膚電気反射のほうは、電気ショこと、そうでない単語とを明瞭に区別していたからである。つまり前者に対しては、後者に対するよりも明らかにより大きな反応をおこしていたのである。

以上の諸例を総合していえることは何だろうか。それは、私たちの無意識下の知覚と、意識下の知覚とは根本的にその目的が異なるということである。無意識下の知覚は、我々の生物学的ないし社会的自我を危険な刺激より遠ざけ、またその存在に必要な最少限度の要求を充たすための役割を果たす。

一方意識的な知覚は、一層高度の知的なあるいは社会的な必要を充たすために、複雑な情報の処理にあたるわけである。これら二つの知覚が補い合って、初めて知覚はその機能を完全に果たすことができるといえるのである。

2016年3月3日木曜日

政治・行政機能と経済機能を分離

初めは、皇居をふくめ。すべての中央官庁と最高裁が移転し、跡地は売りに出し、東京の再開発に回し、跡地の売上げは新首都の建設費の一部にするという「遷都」論だった。ところが、具体化に動き出した一九八〇年代後半になって、自民党の長老議員や保守派とされる議員から「遷都とは天皇陛下も新首都にお移しすることを意味する。地価の高騰と首都の過密問題は別に解決すべきで、陛下に累を及ぼすのは反対だ」と異議がでた。こうした声に押されて、遷都論は「首都機能移転」という言葉に置き換えられた。

変質はこれが始まりだった。先にふれた国土庁の「懇談会」が一九九二年六月に発表した「とりまとめ」は、「移転に当たっては、政治・行政機能と経済機能を分離することを原則とし、政治・行政機能に純化した新首都を想定する」とうたった。

これは、一九七七年に閣議決定された第三次全国総合開発計画で、経団連などの各種経済団体や労組本部など経済の中枢の移転も想定していたのを否定したものだ。経団連などが国会や中央官庁といっしょに引っ越せば、企業の本社機能も移転する可能性もあり、過密の解消につながるというのが遷都論者の主張だった。それが、一極集中の最大の原因だった経済活動はそのまま東京に残ることになったのだ。

そして、その後は、政治・行政の一体的な移転すら棚上げになってしまった。つまり、先ほどみた宇野調査会の「最終報告」は、実は、首都機能の移転は、規制緩和や地方分権といった「国政全般の改革を補完し、加速し、定着させようとするものでありそのために極めて効果の大きい影響力をもつ物理的・具体的な手段」だと強調しているのだ。新首都問題はついに国政改革のシンボルにされ、首都機能そのものの移転はますます影がうすくなった。

2016年2月3日水曜日

財閥系事業体の活力

末廣昭は、この政治権力と官僚機構に依存しつつ「経営請負」を行う特権的経済グループの存在に注目し、これを現代版「サクディナー経済」だと命名した(末廣昭・安田靖編『タイの工業化への挑戦』アジア経済研究所、一九八七年)。サクディナー制とは、全国土を領有する国王が国民にその身分に応じて水田の使用権を下賜し、水田の規模によって位階勲を定めた、タイに伝統的なパトロンとクライアント関係のことである。

現代版サクディナー制のもとで急成長をつづけ、タイ経済発展の中核を占めたのが、五大家族とも十大家族とも呼ばれる財閥である。そのほとんどが華僑・華人系であり、この国の経済に大きなプレゼンスをもつ外資系企業との合弁先も華僑・華人系企業であった。

しかし、これらの財閥の事業展開が本格化したのは、一九六〇年代に入ってからのことであり、その歴史は浅い。それにもかかわらず、タイ国内のみならず東南アジア諸国においても傑出した経営規模を誇る企業にまで成長しえたこれら財閥系事業体の活力には、目をみはらせるものがある。

一九七二年の第三次経済社会開発計画の施行以来、タイでは輸入代替工業化から輸出志向工業化に政策を転換していく試みが、やはり経済官僚テクノクラートの主導のもとでなされた。もっとも、政策体系が転換したからといって、タイの輸出志向工業化が順調に展開したわけではない。

繊維のような輸入代替から輸出志向への成功的な転換例を別にすれば、家電製品、乗用車などがNIES型の輸出志向産業へと変貌していくことは、そう容易ではなかった。タイの本格的な輸出志向工業化は、一九八〇年代後半の円高期に日本企業が大量にここに進出するまでまたなければならなかった。とはいえ、そこにいたるあいだに蓄積されてきた工業力を顧慮せずして、一九八〇年代後半期のこの国の「テイクオフ」はありえなかったであろう。