2012年9月18日火曜日

定石どおりにことは運ばない

川寄さんの次の質問です。たとえば、不登校の人が来た場合、単純に学校に行くのがいいことであるとして、それを目標にカウンセリングしていこうというような人はいないと思いますが、しかし、実際のカウンセリングにおいては、ある種の変容が起こり、ある着地点に収束していくことが多いのも事実です。

不登校の人が学校をやめて新たな方向で人生を開いていくこともあれば、逆に学校に戻ってそこで意味のある経験を重ねていくといったように。

私たちはなるべくカウンセラーの思惑でそれをコントロールしないでいきたいと思ってやっていますが、あるかたちで着地したときに、カウンセラーとしては、『ああ、よかったなあ』と感じるときがあるのも事実です。また、こういった感触がなければ治療の『終結』という言葉を使わないと思います。

しかし、カウンセラーがよかったと感じる着地点が、もっと大きな視野から見たら、むしろ異なる方向での可能性を邪魔しているのではないか、カウンセリングを通してこういうかたちにおさまっていったことがほんとうによかったのか、という疑問がどこかにあります。このようなことに関してなにかご示唆していただければと思います。

心理療法家がクライエントにコミットしていく限り、着地点をまったく想定しないということはありえません。ただ、そういうのをもっていても、それを絶対視しないということがかんじんなのです。

「この人は学校へ行かなくても、自分でなにか有意義なことをやるのではないか」と思ったり、「この人は学校のことで相談に来ているけど、母親との関係が問題で、その改善のほうに向かうのではないか」とか、こういうことは誰でも思っています。

しかし、こちらからその上うにもっていこうとしてはいけない。こちらがそう思っても、間違っているかもしれない。思いこみの強い人は、どうしてもそちらにもっていこうとしがちですが、これは非常に危険なことです。