2012年6月20日水曜日

自分の資質を疑ってみる

学校のことで相談に来ている人に対し、心理療法家が着地点を母親との関係に想定したとすると、「お母さんをどう思うか」とか、「お母さんはどうしているか」とか、母親のことを熱心に聴こうとします。そうすると、それがクライエントに対して一つの方向づけになってしまって、ゆがめられてしまう可能性があるわけです。

自分の思っている着地点と違うことが起こったときは、また考えなおさなければなりません。そのときに「なぜ自分はそういう着地点を考えたのだろう」と考えることで、それまで気づいていなかった自分のパターンがわがったり、あるいは再認識したりします。こういうことが、経験を重ねるということです。

また、相手にそういうことを言ったりするのも、意味があります。「私はこうなると思っていたけど、違うことが起こったな」と言えば、クライエントにもなんらかの考える機会が与えられることになります。

このようにしていけば、たとえ着地点を考えていても、それによって別の可能性の芽が摘まれることはなくなります。着地点というのは、むしろ考えて当たり前です。無為でいるということは、なにも考えないということではありません。

私自身、クライエントに対したときには、いろいろなことを考えています。着地点も一つではなく、幾種類も考える。こちらの読みと相手の考え方が一致したときはスムーズに終わりますが、そうはいかないときも少なくありません。私は、だからこそこの仕事がおもしろいと感じているくらいです。

勝負ごとでもなんでも、いつも定石どおりにことが運んでいたら、おもしろくもなんともありません。スポーツにしても、そういつも作戦どおりにいくとは限りません。だから、やりがいがあるわけです。

自分からクライエントを選んで、むずかしい人を回避していたら、それはこちらの思惑どおりに終わることが多いでしょう。しかし、だから心理療法家としての技量がすぐれているということにはなりません。こちらの着地点とクライエントの着地点が違うことによって、自分自身も大きくなっていきます。やはり、いろいろな経験を重ねることが大切です。自分の資質を疑いながら、心理療法家も成長していくのです。

いかに豪腕ピッチャーでも、力関係からしたら三振をとるのが当たり前と思っているバッターに打たれたりするから、次は考えるわけです。カウンセリングでもそういう勝負的要因がずっとはたらいています。

それから、「ああ、よかったなあ」と感じることに関してですが、あまりこちらが考えていたとおりにスイスイといってしまったりすると、どうも浅いレベルでまとめられてしまったような気がして、「これは、ちょっと読みが浅かったかな」と考えてしまいます。

うまくいかなければ、自分の資質を疑うし、うまくいっても、これはまずかったのではないかと疑うし、その意味ではなかなかやっかいな職業ですが、しかし、スポーツマンなどもみんなそうだと思います。あるところで満足したり、慢心したりしたら、それは現役引退の時期です。

説明しすぎると・・・

私はあるクライエントから、「先生はなにもしない人だと思ったけど、ほんとうになにもしませんね」と言われたことがあります。そのとき私は「ほんまにそうやなあ」と言ったのですが、まさにそれが私たちの原則で、それによってその人は自分で頑張っていくわけです。

だから、クライエントからそういうことを言われたら、私にとっては成功なのです。クライエントがそういうことを言えるようになったこと自体、自立してきた証拠です。

対応でもっともまずいのは、「ほんとうは手紙を出そうと思ったんだけど、出すとあなたが依存的になると思ったからやめたんだ」とかなんとか、あれこれ説明することです。

あまりしつこく説明すると、こちらのやっていることが絶対的に正しいということになってきて、クライエントが文句を言えなくなってしまいます。それでは自我が鍛えられていきません。だから、相手に文句の言える余地を残しておくほうがいいわけです。

教師や親がよくやる失敗は、あまりきれいに説明しすぎることです。これでは子どもは口で反論できませんから、しかたなく手が出る、足が出るということになり、校内暴力や家庭内暴力に発展するわけです。子どもにしたら、暴れるよりしようがない。

周囲がそのように仕向けてしまっているのです。言葉で攻撃できる余地を残すことが必要です。だめなものは、理屈抜きではっきりと「だめ」と言ってやることも必要です。

カウンセリングの原則

どこまでが浅く、どこからが深いかということは、はっきりした境界線があるわけではありませんから、私たちはつねにそういう迷いの中にあるとも言えます。

最低限の条件として、原則をきっちりわきまえていなければならないし、できる限り原則の中でやっているわけですが、ときとして、ここははずしたほうがいいかなという場合もある。その判断は非常にむずかしいものです。

クライエントの中には、「自分がこう言ったら、先生はお金を貸してくれるはずだ」と思っている人もいます。しかし、私だちとしては、そのような期待に沿うわけにはいきません。そういうことで、私自身、非常につらい思いをした経験があります。

クライエントの話があまり悲しい内容だったので、帰宅してから、その人に、「あなたのお話をただ聴いているだけでなにもできませんでしたが、それが私には非常につらかった。しかし、頑張って生きてください」というようなことを手紙に書こうとしました。

私の手紙を書こうとしているという気持ちは、不思議に相手も気づいていて、その人は、帰ってから郵便受けばかり見にいっていました。

ところが、私は手紙を書きたい気持ちをぐっと抑えて、書くのをやめました。カウンセリングの原則からいっても、そういう手紙はできるだけ書いてはいけないと思ったのです。

ところが、このときに、偶然とは思えないようなことが起こりました。その人が郵便受けをいつも見にいっていたけど、まったく手紙が来ていませんから、「なんだ、河合もわかったような顔しているけど、ほんとうに同情してくれているわけじゃないんだ」と思って悲観しているところに、昔の同級生がひょっこり訪ねてきたのです。それで、その同級生といろいろ話しあって、しだいに友情を深めていきました。

質問によって答える

たとえば、「私は妻とこんな喧嘩をしました。あんなやつとは離婚したほうがいいでしょうか」と相談されたとき、こちらから「うーん、離婚したほうがいいと思いますか」と聞き返したりすることがよくあります。

こういうのを「アンサリング・バイ・アスキング」(問いかけによる答え)といって、答えているようだけど、なにも答えてはいない。すると、クライエントはさらにその先を自分で考えていかなければならない。

その人が自分で考えて成長していくわけですから、これはこれで意味のある応答法です。「それは絶対に離婚しなさい」とか、「絶対に別れるべきではありません」などというのは、深いレベルでのコミットにはなっていません。

しかし、セラピストが「アンサリングーバイーアスキング」ばかり形式的にやっていると、だんだん相手を突っぱねたかたちになってきて、治療者はコミットしていないことになる。

そうすると、クライエントは腹立たしくなってきて、来なくなります。かといって、コミットが「よけいなお世話」的な浅いレベルになってしまってもいけない。川寄さんが考えておられるのも、そこの微妙なところだと思います。

クライエントがいくらお金に困っているからといって、絶対にお金を貸すようなことをしてはいけない。これはカウンセリングの鉄則ですが、それと似たようなコミットのしかたをして失敗している例がかなりあります。

おもしろいのは、フロイト自身、そういうことを絶対にしてはいけないということをさんざん書いていますが、彼自身、かつてはクライエントにご飯を食べさせたり、お金を貸したりしているのです。

その誤りにあとで気づいて、そういうことを書くようになるわけですが、ただ、そういう規則破りも、ときとして意味をもつことがあります。

しかし、意味をもつことがあるということは、大失敗する可能性もあるということです。コミットに失敗したら、クライエントを死なせてしまうことにもなりかねませんから、よほど注意が必要です。

コミットするというのは、日本の美学に反するところがある。

日本人は昔から唯一の神ではなくて、森羅万象に尊崇の念を抱いて生きてきました。自然のまにまに生きている人間はコミットはしません。

コミットするというのは、日本の美学に反するところがある。だからでしょうか、日本語には「コミット」に対応する適当な訳語が見つかりません。

川寄さんならずとも、改めて「コミットとはなにか」と聞かれても、日本人ははっきり答えることができないわけです。

しかし、日本もだんだん西洋化されてきましたから、われわれとしても、コミットの意義を考えてみる必要が出てきました。

「コミット」がプラスの意味に使われるようになると、どうしてもコミットのレベルが浅くなりがちです。たとえば、「借金で困っている」というクライエントが来たときに、「では、私がお金を貸しましょう」と言ったのでは、クライエントはそれによりかかってきて根本的な解決にはなりません。

このようなコミットのしかたではレベルが低く、いわば「小さな親切、大きなお世話」といった感じになってきます。

私たちがクライエントにコミットする場合には、川寄さんも言われるように、外的現実ではなく、心理的にコミットすることになります。借金で困る人生を私自身が内的にどれほど生きるかということになります。

通常、コミットという言葉が外的現実についてのみ使われすぎていますから、コミットのレベルというものをよく考えなければならないでしょう。

「コミット」とはなにか?

川寄克哲さんは学習院大学で助教授として教鞭をとるかたわら、夢分析などによるカウンセリングをされておられますが、「コミット」の意味についてのご質問を受けました。

「カウンセリングに関して『コミット』という言葉はとても重要なものと思いますし、実際、われわれはこの言葉をよく使うと思います。

ところが、『コミットとはなんですか』と聞かれるとなかなかうまく答えられません。『クライエントさんにコミットする』という場合、これは単にクライエントに対して熱意をもって治療者が頑張るというものではないでしょう。

私としては、たとえば、クライエントが夢を見るレベルに対して、同様に治療者も自身が夢を見るようなレベルでそこにかかわっていくことといった印象をもっています。

つまり、カウンセラーからクライエントへという単純な横軸ではなく、クライエント自身が有する内的なものという縦軸に対して、カウンセラーも同様の縦軸をもってそれを重ねあわせていくというようなイメージを私はもっているのですが、あまり、うまくない表現だなあと感じます。河合先生、コミットとはなんでしょうか」

「コミット」とは一般的には「ゆだねる」とか「かかわっていく」とか訳していますが、この言葉の本来の意味は、アメリカの友だちから聞いたところによると、いまはポジティブに使われているけれど昔はネガティブな意味だったということです。

キリスト教文化圏では、神というのは絶対の存在です。だから、みんな神の言うとおりに生きていたらいい、人間が下手にコミットするとろくなことはないというのが本来の意味のようです。

たとえば、commit suicideと言えば「自殺する」ですし、commit ulteryと言えば「不倫する」ことで、commit a crimeは「罪を犯す」こと……どれもいい意味ではありません。

ようするに、神の意からはずれた人がおかしなことをするのがコミットで、したがって本来はマイナスのイメージだった。

ところが、近代以降、人間の自我が強くなり、神と離れていったときに、人間はもっといろいろなことに自分からコミットしていかなくてはならないのではないかという考え方が出てきて、しだいにプラスのイメージに変わっていったというわけです。

自分が山を乗り越えようとしていることに気づいていない場合が多い。

高校生のクライエントがミュージシャンのなんとかが好きだと言ったからといって、それを私たちが彼らのように「おっかけ」までやって全部聴いていたら、たまったものではありません。

たとえば、「太宰治が好きだ」と言うクライエントの心情に共感しようと思ったら、その人に「太宰のどんなところが好きですか」と聞けばいいわけです。それだけでも、共感の限界をかなりふくらませることはできます。

もちろん、むずかしいクライエントの場合、その程度ではとても追いつきませんから、そのCDを買いこんできて聴いてみることも必要です。私は、むずかしい場合はそうしています。

それで、次の面接のとき、「あなたが言っていたミュージシャンのCDを聴いたけど、ちっともおもしろくなかったよ」などと言うと、「なに言ってるんですか、先生」と、そのおもしろさについて、とうとうと教えてくれます。

そうすると、「ああ、この子はこんなことに感心しているのだ」ということで、その子の考えや生き方などがわかって、こちらの共感がさらに進んでいきます。

あるとき、「私の心境は太宰の『人間失格』です」と言った人がいました。ところが、同じ日に別の人が来て、「私は『人間失格』がすごく好きです」と言う。こういうことがよくあります。個人的には関係ない複数の人が、三島の『金閣寺』に感動したとか、同じようなことを言ったりします。

それだけ重なるからには、そこになにかしらのメッセージがあるはずですから、そういうときはどんなに忙しくても、必ず読んでみます。

どんなに資質があっても限界は誰でも感じるものですし、それを破るのは、やはり努力です。よくクライエントから、「あの先生はぽくのことをわかってない。どうしたらいいですか」というような相談を受けることがありますが、カウンセラーが自分のことを共感してくれないと思ったときには、そのことをきちんと言ったほうがいい。

ただ、クライエントがそう思うときには、また別の意味もあって、自分が一つの山を乗り越えるのが苦しいときには、ほとんどの人がそう思います。

それは、相手のせいにするというより、自分が山を乗り越えようとしていることに気づいていない場合が多い。しかし、実際に苦しいから、それを、「どうも先生はわかっていないらしい」とか、「どうもこのごろ熱心でなくなったようだ」とか、そういうふうに感じてしまうわけです。

だから、クライエントは、そう思ったときにはカウンセラーにそのことを言ってみればいい。そうすれば相手からも答えがあって、それでお互いの距離が縮まってきます。

どこまで共感できるか

岩宮さんもまた、自分の心理療法家としての資質や器量を問題にされていますが、経験を積めば積むほど、こうした疑問が出てくるものなのです。

「治療者の個人的な体験の中に共感の種を見つけ、それを拡大し、イメージをふくらませることで理解を深めるだけでは、共感に限界があるケースも多いように思います。専門的知識で補える部分もあるとは思いますが、個人の体験を超えたところでクライエントに共感していくためには、どのような方法が考えられるのか教えてください」

まずはクライエントに共感することからはじめますが、そのとき、誰でも自分の個人的体験から出発します。しかし、自分では実際に体験していないことでも、自分の体験をふくらませることで、そうとうなところまで入っていけます。男であっても、女の人にも共感できます。

それに、私たちは専門知識を学び、特別の訓練も受けていますから、自分の体験をさらに理論的にもふくらませていくことができます。

もちろん、岩宮さんはそういうことも理解した上で、それでもなお限界があるのではないかと書いておられるわけですが、そのとおりです。どんなに訓練を受け、いかに多くの経験を積んでも、全部がわかるなどということはありえません。

カウンセリングを受けにくるような人は、みんなそれぞれに深い問題を抱えていますから、私たちのやっていることは、つねに新しい発見の連続であり、新しい限界との遭遇とも言えるわけです。そこを共感していくためには、さらに新しい努力が必要になってくるわけです。

私の場合、なかなか共感できなかったのが、男性の同性愛でした。だから、なんとか理解しようと、三島由紀夫の小説なども読んだりして、私なりにずいぶん努力しました。この仕事を一生懸命やろうとする限りは、つねにこうした努力を欠かすことはできません。

ただ、その努力にも仕方があって、なんでも自分で実際に体験してみる必要はありません。同性愛の心情を理解するためだからといって、自分で実際に同性愛を体験する必要はありません。ものごとの理解というのは、見るとか聞くとか読むとか、いろいろな方法でふくらませることができます。

一山越えたあと

質問の中で岩宮さんは、「実感としては、終結時期を現実の変化にゆだねることのできないような、長期間におよぶ心理療法の需要が増えてきているように思います」と述べておられますが、実際にそのとおりです。

たとえば階段をのぼれない人が来たとします。そして、会っているうちに階段がのぼれるようになったとしても、なかなかそこで終わりとはなりません。

そのことがきっかけで、さらに深い課題に挑戦しようとすることが多いからです。そういう事例がたしかに増えてきていて、私たちも、そこで終わりにはできない。

だから、私は、階段がのぽれない人がのぼれるようになったときにも、こちらから「では、これで終わりにしましょう」と言わず、「一山越えましたね」と言うようにしています。そうすると、「では、このへんで」と言って終わっていく人と、さらに二山目に挑む人がいます。実際に、私か「一山越えましたね」と言ったところ、「はい、先生、これから二山も三山もいきますよ」と言った人もいました。

もっとも、次に行くのだったら、治療者はクライエントに、なんのために、なにをどうしようとするのかをはっきりと認識させておく必要があります。クライエントはI山越えて二山目に入るのは苦しいから、うろうろして時間をつぶそうとしたりするからです。

その意味でも、料金は取っていないとだめなのです。これが無料だったら、クライエントはいつまでもぐだぐだして、なかなか先に進もうとはしないでしょう。しかし、その人がお金を払っていたら、払った分に見合う時間を使わなければ損ですから、先に進もうとします。

行動療法をやる人は、クライエントの内面はあまり問題にしません。

私たちは全体的にいろいろなことを理解しながらやっていこうとするけど、行動療法をやる人は、クライエントの内面はあまり問題にしません。

それで高いところにも平気でのぽれるようになりますから、すごくわかりやすいし、効果も早く出ますから、いまアメリカではこの行動療法が非常にさかんです。これこそほんものの心理療法だと主張する人も少なくありません。

その点、私たちの療法は、「しよう」、「つくろう」とはしないやり方ですから、とにかく時間がかかり、敬遠されがちです。

ところが、行動療法も内面的なことも両方わかる心理療法家から、こんな話を聞いたことがあります。その大はアメリカでセラピーをしているのですが、ある症状が行動療法によってすごく早く治ったので喜んでいたら、何年かたって、その大がまた同じ症状が出たということでやってきた。

そこで、また行動療法をやろうとしたところ、「先生、もうそれはいいです」と言う。「では、どうしてほしいのですか」と聞いたら、「私の話を聴いてほしい」。それでその療法家は、長い目で見たら、話を聴いたほうがいいかもしれないと言っていました。

しかし、このあたりを評して、「行動療法は表面的だ。われわれは内面の深いことがわかっている」と言う大もいますが、これもそう簡単には言えないことです。

階段を三段しかのぼれなかった大が、五段までのぼれたというのは、考えてみればすごい変化ですが、そういうことをやっていることによって、その人の内面や心が大きく変わっているかもしれないからです。

行動療法をやっている大はそういうことをあまり問題にしませんが、内部ではそういう変化が起こっているのかもしれない。

また、一概に行動だから浅い、心のはたらきだから深いとも言えません。「あいつは嫌いだ。殺してやる」と言うのは内面的ですが、言っていることはきわめて表面的とも言えます。

私は、行動療法と私たちがやっていることとは、ひょっとしたらあまり違わないかもしれないと思うこともありますが、いずれにせよ、症状だけに注目して、それだけで喜んでいたのではだめで、先ほどの両方できる先生も、心も必ずパラレルになっていて、行動療法によって階段を五段までのぼれるようになった人も、「小さいころには・・・」というように自分のことを話すようになるとのことです。

私たちは、高所恐怖症の人が来ても、階段をのぽらせたりはしません。「一歩ものぼれません」というクライエントの話を「無為」に聴いているだけです。

そして、次に来たときも、同じことをくり返します。こちらがほんとうに無為になって聴いていればたいてい治りますが、うまくいかない場合も出てきます。それは、治療者がほんとうにそこにいないからです。

相手が階段が一歩ものぽれないということを聴いて無為でいるというのは、普通の人にとっては非常にむずかしいことですが、その大変なことをやるのがプロです。

無為になって聴く

「症状の消失とか現実的な成果とかを直接的にはめざさない心理療法もあるように思います。もちろん、基本的には現実レベルの改善をめざして心理療法を行っているのですが、実感としては、終結時期を現実の変化にゆだねることのできないような、長期間におよぶ心理療法の需要が増えてきているように思います。このような心理療法の存在する意義を教えていただきたい」

岩宮さんの二つ目の質問ですが、先に取りあげた例でもわかるように、自分の臭いが消えたと喜んでいたら、クライエントが自殺したという例もありますから、臭いを消すほうばかりに目を奪われていると危険です。

かといって、その人が人生をどう生きているかが問題だから、症状なんか問題ではないという考え方も間違いです。

症状にとらわれすぎないほうがいいけれど、症状も人生の一部ですから、それを無視したり、忘れたりしてもいけない。そのあたりの加減がむずかしいところです。

心理療法にもいろいろな種類があって、中には、現実のほうにばかり注目するという療法もあります。もっともわかりやすいのは、行動療法です。

たとえば高所恐怖症で、階段をのぼるのもこわいという人がいます。行動療法ですと、階段の三段目から上がこわいとすると、まず二段目までのぼらせて、三段目に片足を置かせ、こわかったら無理せずそこでやめる。

努力して三段目までのぼれるようになったら、四段目をやるというように、段階的に上げていって、屋上まで行けるようになったらおしまい。このように、症状の消失だけをねらった療法もあります。

現実の中でクライエントの自我を鍛えていくことに主眼をおく

日本人が分析を受けるために自分の夢をもっていくと、向こうの分析家はその夢だけを見て、「うーん、これは深い。そうとうな人に違いない」と思ってしまう。

しかし、実際は自我が弱いためにそういうところが夢に出てきているだけなのに、そこを勘違いして、日本人を過大評価してしまう。だから、岩宮さんも言っておられるとおり、そのへんの見分けが非常にむずかしい。

私の場合、日本人のそういうところがわかっていますから、そんなわかりやすくおもしろい夢が出てきたら、むしろ警戒し、夢の話はやめて、現実の話をさせるようにします。つまり、そうやって自我を鍛えるわけです。

しかし、深い夢を見る人は、自我のほうを重視すると苦しいから、来なくなったりします。そこで、自我を鍛えながら、適当に夢も聴いたりしていく。

そのときに、どんなにおもしろい夢をもってきても、こちらがあまり感激しなければいいのです。夢の話は適当に聴いておいて、それにはあまりふれず、「このごろ、どうしてますか」とかいうように、現実の話を聴いていく。

明恵上人(鎌倉時代の僧。自分の夢を記録しつづけて『夢記』をあらわしたことで知られる)のように強力な自我をもちつつ、深い夢を見るのはすごいと思いますが、自我が弱いために、夢がいきいきとしたものになるという場合は、注意を要します。

思春期の夢には、現実とこんがらかって、どこまでが夢でどこまでが現実かわからなくなるようなケースがありますが、大人になってもそれをやっている人がいます。

そこを見きわめることがかんじんでしょう。夢や箱庭を現実につなげていこうとするより、現実の中でクライエントの自我を鍛えていくことに主眼をおいて会っていったほうがいいでしょう。自我の確立につれて、そういう夢もしだいに見なくなると思います。

個人的無意識の内容があらわれる

日本の社会は西洋などと比較すると、かなり相互依存的なところがありますから、そのへんが多少あいまいでも生きていくことができます。

むしろ、あまり明確な判断を示したりすると評判が悪くなって、生きにくくなります。だから、あまりそういう意識的なものを前面に出さないで生きている人が多い。

ここでユングの考える心の構造を簡単に解説します。自我がある程度の強さをもっている人は、イメージの世界に注目すると、まず個人的無意識の内容があらわれてきます。

それについての長い分析経験を経た後に、それより深い普遍的無意識にイメージを通じて接することになります。そうなると、そのイメージは神話的な内容になってくるし、それにともなう感情体験も深くなってきます。

そのような経過を経ずに、なんらかの条件によって、普遍的無意識の力が強くなって、それが直接的に自我に作用してくると、そうとうな心理的危機におちいり、ときには精神病的な症状を示すことさえあります。

ところが、日本人の中には、西洋的に言えば弱い自我をもち、無意識の深い世界との接触がありながら、周囲の人だちとの微妙なバランスの中に生きている人がいます。

このような人はイメージも普遍的無意識の内容が生じてくるので、非常に深いのですが、それを自我に統合して生きていくということはありません。

ある意味で言うと「柳に風」と生きているわけで、現実生活のほうはなんにも変わらないのです。このような人の場合、周囲の人がおもしろい人だと思いながら、少しずつ迷惑を受けたりしていることがよくあります。

こんな人の場合は、夢の内容はたしかに深いと言えますが、だからと言ってこの人が有能であるとは言いがたいし、夢の分析を通じて変化していくということがあまり期待できないのです。

この点で、日本人がスイスやアメリカに行ったときに、向こうの人からよく誤解され、すごい才能をもった人が来たと思われて、「こういう人こそ分析家になるべきだ」などとほめられる。