2012年12月25日火曜日

お産におけるインフォームドコンセントは必要か

さらに六二歳氏は、助産婦の配慮によっておっかなびっくり出産参加した一人だが、「出産がこんなに大変なものとは知りませなんだ。一緒に坐って加勢してやってよかったですよ。私もああやって生まれてきたんだと思うと、享楽なんかでセックスやっちゃあいけんなあと思いましたよ」と、男女のセックス観にまでひるがえって感想を述べている。このように、夫や姉妹の出産への参加は、夫にとっては、父親への通過儀礼になり得るし、産婦の心身にとっても、非常に有意義である。

ただし、夫が出産に参加するか否かは、当事者たちの考えに任せるべきだと思う。私か言いたかったのは「これこれのメリットがある」ということだけで、二人が様々な事情で夫参加を望まないことだって、その夫婦の選択として正しいことだと思う。「ぜひ参加したい」という夫がいて、「ぜひ参加して欲しい」という妻がいるのが最適なのだが、一般的には「ぜひそばにいて」と望む奥さんがいて、夫は仕方なく、あるいはかっかなびっくり参加する場合が多いらしい。しかしそれでも、ほとんどの場合夫たちは、クライマックスには必死で妻の手をにぎり、励まして積極型に変身し、大部分の夫はわが子の誕生を、感動の涙で迎えるという。

インフォームドコンセントとは「説明と同意」と訳され、「医師は症状や治療について患者が十分理解するまで説明する。どの方法をとるかは患者が決める」(『朝日新聞』一九九〇年五月二二日)ことを言う。また、アメリカでは「医学研究のある段階では人体実験が必要となることを認め、これを道徳的、理性的に行うための九項目の基本要件として」(米本昌平著『先端医療革命』中公新書)インフォームドコンセントが義務づけられ、一九六四年のヘルシンキ宣言の中で条文化され、定着しているが、日本ではようやく昨今、脳死を前提とした臓器移植推進の気運の中で問題にされ始めたにすぎない。

なぜ欧米では当然とされ、日本では考えられなかったかについては、人権意識の違いとか医療保険制度の違いなどがあるだろう(『先端医療革命』にくわしい)。このように人権意識の低い社会では、インフォームドコンセントはおろか、しばしば医療内容についてたずねても答えてくれず、拒否しても必要医療として治療されることは日常茶飯事で起こりうる。とくに産科では、どちらかと言えば「女は黙って従うべき」という文化がある。それは産婦と産科医の関係がほとんどの場合、「どんな賢い女も、男にはかなわない」とされた男と女の関係であり、さらに、医者と患者という専門家と素人の関係の、二重の上下関係に縛りつけられた特殊な領域だからである。