2014年12月3日水曜日

半島をめぐる大国の確執

農地や肥料、さらには子不ルギーの不足といったことは北朝鮮の食糧危機のむしろ副次的要因である。これら不足要因を対外協力によって補填したとしても、北朝鮮農業を救済することはできない。北朝鮮の食糧不足は今後ますます窮迫の度を増していくにちがいない。危機は刻々と迫っている。韓国は経済危機の克服と同時に、北朝鮮の崩壊にいかに備えるか、緊急事態を考慮してことにあたらねばならないのである。北朝鮮への「太陽政策」といったことだけで大丈夫なのであろうか。

本章では北朝鮮について扱ったものが少ないのは残念である。私に強い印象を残している北朝鮮に関する名著を二つだけあげれば、一つは玉城素著『北朝鮮破局への道チュチェ型社会主義の病理』(一九九六年、読売新聞社)であり、もう一つは萩原遼著『北朝鮮に消えた友と私の物語』(一九九八年、文蓼春秋)である。前者は、タイトルがそのエッセンスをよく伝えている。北朝鮮の政治、経済、社会の「袋小路」のありさまを冷静な眼で追究したこの分野の碩学の名著である。後者は、日本で青春時代をともに過ごし後に北朝鮮に渡っていった友のその後を追いながら北朝鮮という国家の暴力性を追究したノンフィクションである。

もう一つあげておかなければならない名著がある。ドンーオーバードーフォー著、菱木一美訳『二つのコリアー国際政治の中の朝鮮半島』二九九八年、共同通信社)である。朝鮮半島の内実と抗争、半島をめぐる大国の確執と調整の過程を本書ほど包括的かつ克明に論じた秀作は他にない。これほどの朝鮮半島分析はしばらく世にでることもあるまいとさえ思わせるほどである。

本書のゲラに朱を入れている最中に黄長嘩『金日正への宣戦布告黄長嘩回顧録』(一九九九年、萩原遼訳、文蓼春秋)が出版された。買い求めて一気に読了した。黄氏は一九九七年二月に北朝鮮から韓国に亡命してきた朝鮮労働党書記である。主体思想の構築に重要な役割を担い、金日成・金正日父子の周辺にいてその性格、思想と行動を知悉する人物である。北朝鮮という国家の特異な組織編成のありよう、指導部の異常な立ち居振舞いが、その政治支配の中枢にいた人間の口から直接語られており、第一級の資料的価値をもつものといえよう。

2014年11月4日火曜日

アウトローな法律の使い方

日本の法律では、ナマの力をもって勝手に権利を行使する「権利の実現」は、禁じられています。これを我々法律家は「自力救済の禁止」と呼びます。もしそれをやってしまうと、窃盗罪とか、暴行罪とか、住居侵入罪とか、ケースバイケースでいろいろな犯罪が成立することになりかねません。

従って、「まともな人」は、そういうことはなかなかできないこと
になっているわけです。「まともな人はどうしたらいいのか」といえば、まさに「正しい手続」を踏まなければならないわけで、その正式な手続が「裁判」というものなのです。この手続がうまくいかないと、「本当は権利かおる」とか、「法律によるとこういうことになっている」とか主張しても、あまり意味かおりません。

実際のところ、日本では、せっかく立派に見えるような法律とかさまざまな権利とかがあるはずでありながら、それがあまり役に立たないというのは、実はこの「手続」の欠陥に大きな原因があるのです。そして、意外に思われるかもしれませんが、法律を作るような人たちも含めて、手続に関する意識やセンスについて、日本人はとても甘いということがあるのです。

では、「まともでない人々」には?「まともな人」のためには、しっかりとした正しい手続が法律で決められていますが、そういう手続とは全く無縁の、アウトローな人たちもいます。言ってみれば「まともでない人たち」で、要するに暴力などによって自分たちの欲望なり願望を達成してしまう人たちです。彼らにいわせれば、彼らなりに「筋を通す」「落とし前をつける」ということでしょう。

こういう人たちも、自分たちに都合がいいときには法律を持ち出します。しかし、本当は、正義が全体としてどうだとか、公平であるかとか、正当な権利がどうだなどということには、あまり関心がありません。ただ、自分に都合がいい法律や権利だけを気まぐれに持ち出して、「まともな人」が正義を実行するのをブロックしたりしますから、そういうことにはやけに関心が高いというのは、先はども説明した通りです。

2014年10月3日金曜日

動物や植物とともに命を大切にして生きる

このようにみてくると、一般の市民や若者にとっての豊かさとは、地球市民としてすべての人が共通に持っている、ある「生き方」の実現なのではないかと思えてくる。それはアフリカの飢餓救援のため、世界を結んで行われたロックーコンサートの大合唱、「ウィーアー・ザーワールド」の歌を思い出させるものがある。ぼくらが世界。希望の未来をつくるのはぼくら。いま救援の手をさしのべるのはだれのためでもない、ぼくら自身のため。

アフリカの飢餓救援のため、延ベー六時間におよぶ大がかりなロックーコンサートが、一九八五年夏、ロンドンとフィラデルフィアの会場をテレビで結んでおこなわれ、世界中に中継された。「ライブーエイド」と名づけられたこの催しをよびかけたのは、アイルランドのロックースター、ボブ・ゲルドフである。コンサートは、ロンドン会場で人気バンド、ステータスークオによる「ロッキンーオールオーバー・ザーワールド」の演奏ではじまり、フィラデルフィア会場での「ウィーアー・ザーワールド」の大合唱で終わった。

テレビ放送中にくりかえし寄付のよびかけがおこなわれた。主催者の発表によると、放送料、入場料、電話による寄付申しこみをふくめ総額五〇〇〇万ポンド(当時の為替レートで換算、約一六五億円)ものばくだいな救援金が一度きりのマラソン公演で集まった。コン サートは通信衛星を利用して日本にも生中継され、募金の訴えに応ずる視聴者からの電話が放送局に殺到した。

また、もっと幼い子どもたちの声を集めたヘレンーエクスレイ編『美しい地球をよごさないで』その本には世界の七十力国以上の子どもたちの文章や絵がまとめられており、その前書きには、国がちがっても、子どもたちの考えていることは、みな同じでした。五〇〇〇にものぼる子どもたちの作品の中で「人間が生きるためなら、何をしてもいい」といっている作品はひとつもありませんでした。どの文章や絵からも、命あるものを大切にし、いつくしみ、この美しい地球をみんなで共存できる世界にしようという思いが伝わってきます。というエクスレイの言葉が書かれている。

子どもたちが、そこで語っている豊かさや、しあわせの意味は、開発による環境破壊や戦争や核による恐怖をなくして、動物や植物とともに、命を大切にして生きること、つまり地球の豊かさである。それは、最大限に多くのものが大切にされ、生きていくこと、を意味している。「しあわせとは、まわりのものを大切にすること、できるだけ傷つけないようにすること。ただたんに、ものを大切にすることなんです」「わたしは、らっぱずいせんがさいているだけで、しあわせ」

2014年9月3日水曜日

大学は不死身か

大学はヨーロッパ中世の発明とされるが、ニ一世紀以来二〇世紀末の今日までに原型をとどめたまま存続してきたという意味では、最も強靭な社会制度のひとっであろう。アメリカ大学界の代表的指導者クラークーカーは、「万物は流転し何物も持続しない」というヘラクレイトスの言葉は、「ただしほとんどの大学は存続している」という例外を付さなければならないという。

ヘラクレイトスによれば、一五二〇年までに西洋世界で確立された制度のうちで、二〇世紀の今日までに、基本的機能も変わらず、歴史的な断絶もなしに原型をとどめたまま存続しているものは八五ほど存在するが、このなかにはカトリック教会、マン島、アイスランド、グレイトーブリテソ島の議会、いくつかのスイスの郡、そして七〇の大学があるという。

かつて支配権を振るっていた王権は今や君臨するだけのものとなり、家臣を従えた封建領主、独占権を握るギルドも皆歴史の彼方に消え去ってしまった。しかし大学だけは、今でも創設されたと同じ場所に居すおり、昔ながらの同じ建物が用いられ、教授や学生はおおむね昔と同じようなことを営み、大学の管理の仕方も昔とほとんど変わりのないやり方で行なわれている。

時代や国によって多少のバリエーションはあるにしても、大学の永遠の機能は教育、学術研究、社会サービスないしはそれらとの祖み合わせである。つまり、大学は他の社会制度と比べて最も変化なしに今日まで存続してきた制度だ、というのである。

実際、大学がいかにその原型を継承しているかは、例えば講義や演習といった授業の方式、学年暦、学位授与権、試験の方法、学寮、学部、一定の自治権を持つ教授団……といった、今日の大学の特徴をなすものが、すべて中世の発明であったことからも明らかであろう。書物が高価で入手し難かったその当時には、授業では教授は自分しか持っていない書物や講義録を読み上げ、これを学生が忠実に筆記した。

これが大学の最も一般的な授業形態である講義の始まりなのだが、いくらでも本が出版され、コピーもビデオも通信衛星すら利用できるようになったマルチメディア時代になっても、現代の大学の授業では、教授が重々しくノートを読み上げると学生はひたすらノートをとるという素朴で古めかしい伝統が、後生大事に守られているのである。

2014年8月6日水曜日

日本を再興できるほどの重要な改革

日本人の法律に対する、盲信と言ってもよいくらいの過剰な信頼である。まるで宗教でもあるかのように、一度決めたらいっさい変えない、いや変えてはならない、と思っているのではないか。法律とは政策であり、人間の考えたものである以上、完全ということはありえない。それゆえ、法律は通っても、その後には微調整が必要なのは当然のことなのだ。法律を通すことでの国家改革と、個人のダイエットは完全にちがうのである。ダイエットならば、微調整しながら進むのが、健康を損わないで成功する唯一の道だが、改革はこの反対で、まず先に大筋を変え、その後で微調整するという順序にしないと効果がない。

とは言ってもダイエット型の改革でもよい場合があるが、それは安定成長期にしか許されない贅沢である。小泉純一郎を首相にしたのは、彼を総裁に選んだ自民党員でさえも、このまま行けば日本は安定成長も享受できなくなるという、危機意識をもったからではなかったのか。それなのに、今になって反対と言う。これくらい、大同を忘れ小異しか見ないこともないのではないかと思う。郵政民営化は、やり方しだいでは日本を再興できるほどの重要な改革であると思っている。有事立法のときのように、民主党も対等な立場で参加しての共同提案になれば、どんなに良いかと思っていたのだ。だが、今からでも遅くはない。もしも総選挙で、郵政民営化賛成派が勝ったとしたら、そのときこそ民主党は積極的に参加すべきである。大筋改革後に来る微調整が、良い方向でなされるためにも。

前略 勝負に打って出てお勝ちになったのですから、さぞや御気分が良ろしいことでしょう。ヨーロッパのマスコミの見出しもほぼ一致して「日本は改革を選んだ」と、九月十一日の総選挙の結果を報じていました。私かあなたに最初に注目したのは、今から七年前、厚牛人臣をしていらした時期のあなたが『新潮45』誌上に書かれた一文からです。その文は国会議員が在職二十五年を過ぎるともらえる永年勤続表彰を辞退なさったことから始まっていたのですが、それを読んだ私は、この人は健全な常識の持主なのだと思ったものでした。

なぜなら、まだ国会議員として給料を受けていながら、在職二十五年を過ぎると特別手当ても月々三十万円受けられるとは、あなたも書かれたように、国民に行政改革を訴えている政治家としては変だ、となります。しかも、これが書かれた一九九八年ですでに、特別手当てをもらいつつ議員の給料を手にしているのは、衆議院に六十一名、参議院に七名もいて、その特別手当ての総額は二億五千万にもなるとのこと。その中には森喜朗、小沢一郎、土井たか子もいるから、これはもう、既得権に浴せるならばもらっちやうというのは、保守も革新もないとわかったのでした。

そして、あらためて七年前にあなたが書かれたことを読み返してみてわかったのは、あの頃からずっとあなたの軸足はブレていない、ということです。いくつか抜粋すれば次のようになります。「これからの最大の政治課題は、何といっても行財政改革である。行財政改革というのは、これまでの既得権を手離さなければできない仕事である。そしてそれには、どうしても国民の痛みがともなうことになる。政治家は、今こそ身をもってそのことを示し、理解してもらう時でもあると思うのだ」

2014年7月16日水曜日

日本の政党・議会の特殊性

十年たって、両国の立場はちょうど逆転した。アメリカの一部の知識人やプレスがここぞとばかり「日本的」なるものをたたくのも、十年前の彼等の屈辱を思えば多少の納得がいくかもしれない。エンパイアー・ステードービルやロックフェラー・センターまで日本勢に買いまくられ、アメリカはいったいどうなるのだろうと思っただろうから。そして、いまやアメリカの投資家が日本を買おうと虎視たんたんと狙っているのである。

しかし、おそらくそれより大きな理由は外国人(実は多くの日本人も同様なのだが)の日本の政党や議会のあり方に対する無理解であろう。実は、日本の政党は欧米のそれに比べて極めて特徴的な性格をもっている。すなわち、政策決定へのかかわり方について、日本の政党ほど強い力をもっている政党は他に例がないのである。

例えば、アメリカの政党組織は極めて地方分権的で、党として中央政府の政策決定にかかわることはほとんどない。全国レベルでは党の全国委員長というポストがあるが、これは選挙の調整をもっぱら行う役職であり、たいして重いポストでもなく、政策に関する影響力は全くないと言っていい。

英・独・仏もそれぞれ異なる政党システムをもっているが、政権政党が政党として(もちろん政党の主要メンバーが政府入りし、政府で権力を行使することは当然である)政策決定に関与する度合いは日本に比べ格段に少ない。こうした制度的背景から、日本における党と政府の使い分けは外国人には理解しがたいものであり、これが政府が無責任であるという誤解を生む原因の一つになっている。

これと似たような話ではあるが、日本の国会の慣習についてもこれが他国と異なり、かつ外国人(および多くの直接国会とかかわりのない日本人)に知られていないことから、同じような誤解が生まれている。

2014年7月2日水曜日

特殊法人の情報公開の必要性

文書があるかないかさえ明らかにしないことを認めた条項も、文書を隠すロ実に使われるおそれがある。乱用を防ぐためには、犯罪の捜査情報など具体例を列挙して限定すべきだ。あるいは、この条項を削除して、運用にまかせる方法も考えられる。公開の例外となる不開示情報は個人情報や企業情報など六項目とされているが、もっと限定する必要がある。

とくに、公務員の氏名については、中央官庁の課長以上は必ず開示するが、それ以下は職名にとどめるとした点も問題である。先でみたように、日本の政策決定は課員や係長から起案するボトムアップ式がとられている。情報の全容を知るためには全員の氏名公表を原則とすべきである。仙台地裁は一九九六年七月、いわゆる「官官接待」の参加者氏名の開示請求裁判で、公務員の職務執行にあたって記録された氏名は原則としてプライバシーの問題を生じる余地はない、との判断を下している。

住民が、不服審査会で却下された情報公開請求について、地元の裁判所で提訴できるようにすべきだが、要綱案では取り上げられなかった。このままでは、霞が関か大臣の住所地となり、霞が関は東京地方裁判所が管轄することになる。しかし、公共事業の視点からすると、事業が全国で行われていること、東京地裁に提訴が集中しないようにする必要があること、などを考えると、米国、フランス、ドイツのようにたとえ大臣の名で行われる事業であっても問題の起きた地域の地裁を管轄裁判所にすべきだ。

特殊法人の情報公開については、要綱案は、「情報開示に関する法制上の措置その他の必要な措置を講ずる」と、行政にゲタを預けた。先でふれた猪瀬論文にみられるように、日本の公共事業における特殊法人などの役割は大きい。そして特殊法人には補助金などをふくめて、多くの公的援助がなされている。特殊法人などに関する情報を開示させる法律の立法化がぜひ必要だ。

2014年6月17日火曜日

心身の動揺が血圧を上げる

精神的興奮や体を動かしたときに血圧が上がることはよく知られています。遅くまで仕事をしていてあまり寝ていない吟受付時間ギリギリで走って病院に来た時、資金ぐりが大変で心身の疲労かはげしい時などに血圧を測ってみると、たいてい普通の時より上がっています。びっくりするほど上がっていることもあります。血圧が高いため、検査と治療の目的で入院した場合でも、入院しただけで血圧が下がることが少なくありません。

血圧が高いといっても、入院したその日から血圧を下げる薬を処方すると、薬が効いたのか、入院することで下がったのか分からなくなってしまいます。ですから、緊急な場合以外は、心身の安静をとらせ、少なくとも二日三日くらいは血圧がどうなるのかを見届けたうえで薬を使います。その方が薬の効果もよくわかるし、その人の高血圧症がどのような状態にあるのかを判断するうえで役立ちます。

高血圧のときも正常またはその近くまで血圧が下がることもあるというように、血圧変動の幅が大きいものを動揺性高血圧症、血圧の動揺が少なく、いつ測っても常に高いものを固定性高血圧症と呼ぶこともあります。高血圧症としては、動揺性のものは一般に軽症で、固定性のものは中等以上の場合が多いといえます。一般に最高血圧のほうが、最低血圧より動揺しやすく、とくに高齢者では動揺の幅が大きいのが普通です。

日常生活のおもな活動による血圧の変化を観察してみますと、リラックスしているときにくらべ会議などで多人数を相手に話すときにはいちじるしく上昇します。ふつうの会話ではそれほど上からず、睡眠中はかなり下がるのが普通です。一般には、男性よりも女性に変動の幅の大きい場合が多いようです。

2014年6月3日火曜日

スコットランドの古い風習

スタンフォード大学に入学してまず単位をとった科目に、テレビや映画の効果を扱うセミナーがあった。あれは夜の七時半から始まるコースで、他の主要な科目と同様、十人余りの学生に対して、二人の担当教貝がつくぜいたくなクラスであった。この科目ではほとんど毎回、コミュニケーション研究史上の著名な実験に使用されたフィルムが上映され、その後でこの実験の理論的、方法論的意味が議論される。

あのセミナーは夕食後のリラックスした雰囲気のなかで、行われるのを常とした。スタンフォードのような大きなキャンパスを持つアメリカの大学では、多くの教授がキャンパスに自分の住宅を持っている。学生も寄宿舎に住むか、キャンパスの周辺にアパートを借りて住んでいる。だから夕食後の落ち着いた気分のなかで行う、あのようなセミナーも可能だったのであろう。

アメリカにはスコットランドの古い風習を受けついで、十月の終りにハロウィーンといわれる祭りの習慣があった。もともと天上の諸聖人を祭るためのこの祝日は、今日ではいわば子供の日になっている。その夜はおとぎ話に出てくる魔女や、魔女のつれている黒猫の絵があちこちに飾られる。またカボチャをくり抜いて作った、お化けランタンを門口に置く。そして日が暮れてあたりが暗くなると、子供たちは魔女や海賊、あるいはスーパーマンやシンデレラと、おもいおもいの仮装をこらして、近所の家の戸をたたく。

これに対して大人たちはチョコレートやキャンディーを用意して、子供たちのもってきた袋に入れてやるのである。しつけの厳しいアメリカの家庭にあって、この日は年に一度の子供の無礼講の日である。あのコミュニケーション研究の、夜のセミナーでも、教授はつけヒゲで仮装してセミナーに現われたし、セミナーの後、私たちは仲間の学生のアパートに集まって、ハロウイーンーパーティーをした。今から考えるとまことによき古き時代の学生生活であった。

しかしこのセミナーの初日の当惑を私は忘れることができない。その日、開講一番に見せられたフィルムは、何と第二次大戦中に作成された戦意昂揚の宣伝映画であった。「イギリスの闘い」と名づけられたこのフィルムは、ヒトラーのイギリス上陸作戦を阻止するため、ドイツ空軍を迎え撃つ、イギリス空軍の活躍を中心としたフィルムであった。それはこの英国戦闘機隊の英雄的な闘いを中心に、ヒトラーのナチズムに抵抗することが、いかに大切かということを説いた映画であった。

しかもこのフィルムのなかには、ナチスの大会の光景と一緒に、日の丸の小旗を振りながら万歳を叫ぶ日本の群集もでてくる。あれは日本において日本人によって撮影された、記録映画の一部であったのであろうか。しかしあの宣伝映画のなかに出てくる日本人の群は、いかにもチンチクリンでチョコマカと歩いていた。それだけに日本の軍国主義がいかにも、戯画化されて映し出されていた。

2014年5月22日木曜日

コストとベネフィットの分析

先住民などの少数者にもたらすコストはきわめて鋭角的で、しばしば政治的対立の構図を描きだす。論理的にいえば、少数被害者に発生するコストは、プロジェクト建設がもたらす「ありうべき」収益を想定して、これをもって補償されねばならないが、現実には被害者がこの補償に満足せず、政治的抵抗を試みることも少なくない。コストとベネフィットの分析はとことん難しい。

ペネフィットは比較的高い確度で秤量できても、コストのほうがなお不鮮明だという場合、この援助は差し控えるべきだというのは、ひとつの選択ではありうる。しかし、その選択が受入れ国政府に、日本の「傲慢」を鋭く意識させ、受入れ国との友好を傷つけるという、「政治的コスト」を背負わざるをえないことをも、われわれは十分に考慮に入れておかなくてはならない。

もっとも、近年における援助批判論は、「技術的」であるよりは、もう少し「本質的」である。南洋材やエビなどを大量に消費(浪費)するわれわれの「ライフスタイル」こそが問われるべきであり、そうでなければ南洋材やエビがつくりだす利潤機会に応して進出する企業とこれを支える援助をなきものにすることはできない、というのがその論法である。

指弾されねばならないのは、資源をとめどもなく浪費するわれわれの歪んだ大量消費社会そのものであり、そうした社会を帰結した「成長至上主義」だという主張は、これも争い難い正当性をもっている。かかる消費を創出した近代産業技術文明への深い自省は、多くの人びとの共感を誘うものであろう。

しかしこうした「正当性」を具体的にどうあらわすかということになると、答えは自明ではない。南洋材を使うな、エビは喰うな、とはいかな権威的政府といえども、国民に命じることは簡単ではない。ましてや、われわれは規制の少ない自由な市場経済を理想としているのであって、消費者、企業家の自由な選択こそがわれわれの社会の活力の源泉である。選択の自由を奪う権力を政府にゆだねてよしとするような文明史的自省は、語義矛盾でさえあろう。

2014年5月2日金曜日

プラザ合意以後の外貨準備高

ハイーパワードーマネーは主に三つの要素から構成される。すなわち、①外為市場への介入などにより変動する外貨準備高、②日本銀行の対政府向げ信用、及び③日本銀行の対民間銀行向け信用である。このなかで、七一年のニクソンーショツクを契機に三六〇円時代に終わりを告げてからは、ハイーパワードーマネーの大きな変化は常に外貨準備高の増減によって惹起されてきた。

一方、信用拡張乗数は逆算するならば、国内流動性を通貨供給量(M2十cD)で捉え、これをハイーパワードーマネーで除することによって得られる。わが国の場合、この乗数は八〇年代後半に入ってからは一一・五倍前後で推移している。そうすると、他の条件が変わらないとすれば、円高による介入を反映して外貨準備高が一兆円増加すると、通貨供給量を一一・五兆円も拡大させる潜在的効果を有することになる。

表は、八五年九月のプラザ合意以後の外貨準備高の変動と、それを受けた潜在的な国内信用の拡大効果を推定したものである。この表をみると、外貨準備高は八六年から八八年にかけて、円相場の急騰を反映して大幅な増加を続け、この三年間の増分を累計すると七〇〇億ドルを超えるものとなった。また円ペースに転換すれば一〇兆円を超える著増であり、ハイーパワードーマネーして八八年には二四兆円も増加させる効果が生じた。

三年間の累計では二一○兆円もの規模であった。この時期の通貨供給量は八五年末でみて約三〇〇兆円であったため、わずか三年間で国内信用を四割も拡大させるほどのインパクトが持ち込まれたのである。こうした国内信用の急増も経済規模の拡大にマッチしたものであれば、必ずしも過剰となるわけではない。だが、この間の経済規模は名目GNPで捉えれば約ハ%にとどまった。こうして創出された過剰流動性は、バブルの形成へと一気に突き進んだのである。

成熟経済下における企業金融の構造変化率家計の高貯蓄体質の持続下で、もともと資金余剰体質が八〇年代に存在していた。この状況下で、八〇年代後半に入ってからのバブル発生には、国際金融面において三つの要因が同時的に成立したことが関係していた。すなわち、第一に、ドルを基軸通貨とする国際通貨システム下での流動性創出のメカニズムが機能している。第二に、金融政策面におけるG‐7体制下での対米協調策が緩和方向で徹底的に推し進められた。また第三に、先で触れる国際資本移動の自由化を反映して、巨額の持続的対外不均衡をファイナンスすることが可能となったことである。

2014年4月17日木曜日

軍拡の政治構造

さっき引用されたアインシュタインに代表されるような、核戦争による人類絶滅の危険についての危機意識、それが第二次大戦後、軍縮を要求するさまざまの努力や運動を支えてきました。この危険は、今日もなおつづいています。ただこの危機を生み出した要因は何かという点になると、人により解釈や力点が多様であり、また戦後の時期によっても解釈や力点が変化してきました。いま必要なのは、それらを全体としてとらえる視点を持つことだろうと思います。

第二次大戦後まもなくから一九五〇年代の末ごろまでの、いわゆる「冷戦」期には、軍備競争や戦争の危機は、何よりも米ソの間の対立や不信、つまり米ソ両陣営にとって対外的脅威があることに起因するという考え方が一般的でした。ところが一九六〇年代に「デタント」と呼ばれる平和共存のシステムが曲りなりにでき上がった時に、二つの問題が表面化してきた。一つは、東西の間の政治的緊張が緩和したにもかかわらず軍備増強や軍備競争が続くという事実が誰の目にも明らかになったことです。そうすると、軍備競争を米ソが自己の対外的・軍事的な安全の維持手段としてやむをえず行なってきたという理由づけは疑わしいということになる。そこで、米ソの内部に軍備競争を支える政治・経済的要因があるのではないかという問いが提起されることになりました。

もう一つは、平和共存とかデタントというのは米ソ中心の国際秩序の現状維持を意味し、この国際秩序の現状変革を必要とする勢力、とくに「第三世界」にとって不利なシステムではないか、という問題が表面化してきたことです。そうすると、米ソによる「デタントのもとでの軍拡」は、第三世界への米ソの優位を保つためのもので、米ソ相互に向けられたものではないのではないか、極言すれば第三世界に対する米ソの共同支配のための手段ではないかという問いが提起されることになりました。

そこで軍備競争は、いったい誰が、誰のどういう利益のためにつづけているのかが、当然問われなければならなくなります。つまり軍拡あるいは軍縮の問題を、国家単位の軍事的な安全保障のレヴェルだけに限定するのではなくて、国内構造も含めて、もっと政治的な問題としてとらえなおすことが必要になってくる。したがって、軍縮を考えるために、まず軍拡の政治構造を全体的にとらえる、そういう視点がどうしても必要になってくるわけです。

こういう視点に立って、現代の軍拡、あるいはその直接の媒体をなしている軍備、つまり兵器の開発、実験、生産、配備、使用、およびそれにかかおる組織などを一括して「軍備」と呼ぶとしますと、そうした軍備がいったいどういう政治的機能をはたしているのかを、解明する必要がある。そこで、ごく巨視的に見た場合、私は軍備体系が五つのレヴェルで、それぞれに特有の政治的機能を営んでいると考えます。世界の軍備体系を全体として大きな一つのシステムとして考えて、上のほうから順々に見ていきますと、まず第一に、いちばん上のレヴェルに、軍事的超大国である米ソ内のいわゆる「軍産複合体」といわれる権力組織があります。

もちろんこれは米ソ以外の軍事的先進国にもありますが、世界的な軍備体系を支える代表的で中核的なものは、楊兵器とか、超近代兵器の開発・実験・生産などの推進力になっている、米ソ両超大国の軍産複合体です。これはそれぞれに巨大な権力集団を構成している。「軍産」だけではなくて「官」、つまり官僚集団、あるいは「学」、つまり学界など、さらに範囲を拡げて考えることも可能ですが、とにかくそういう権力複合体があります。社会主義の場合には、資本主義と同じ意味で軍産の複合体があるのでないことは自明です。経済システムがちがうのですから、私的企業と軍や官が複合しているということはありえない。