2014年5月22日木曜日

コストとベネフィットの分析

先住民などの少数者にもたらすコストはきわめて鋭角的で、しばしば政治的対立の構図を描きだす。論理的にいえば、少数被害者に発生するコストは、プロジェクト建設がもたらす「ありうべき」収益を想定して、これをもって補償されねばならないが、現実には被害者がこの補償に満足せず、政治的抵抗を試みることも少なくない。コストとベネフィットの分析はとことん難しい。

ペネフィットは比較的高い確度で秤量できても、コストのほうがなお不鮮明だという場合、この援助は差し控えるべきだというのは、ひとつの選択ではありうる。しかし、その選択が受入れ国政府に、日本の「傲慢」を鋭く意識させ、受入れ国との友好を傷つけるという、「政治的コスト」を背負わざるをえないことをも、われわれは十分に考慮に入れておかなくてはならない。

もっとも、近年における援助批判論は、「技術的」であるよりは、もう少し「本質的」である。南洋材やエビなどを大量に消費(浪費)するわれわれの「ライフスタイル」こそが問われるべきであり、そうでなければ南洋材やエビがつくりだす利潤機会に応して進出する企業とこれを支える援助をなきものにすることはできない、というのがその論法である。

指弾されねばならないのは、資源をとめどもなく浪費するわれわれの歪んだ大量消費社会そのものであり、そうした社会を帰結した「成長至上主義」だという主張は、これも争い難い正当性をもっている。かかる消費を創出した近代産業技術文明への深い自省は、多くの人びとの共感を誘うものであろう。

しかしこうした「正当性」を具体的にどうあらわすかということになると、答えは自明ではない。南洋材を使うな、エビは喰うな、とはいかな権威的政府といえども、国民に命じることは簡単ではない。ましてや、われわれは規制の少ない自由な市場経済を理想としているのであって、消費者、企業家の自由な選択こそがわれわれの社会の活力の源泉である。選択の自由を奪う権力を政府にゆだねてよしとするような文明史的自省は、語義矛盾でさえあろう。