2015年4月3日金曜日

佐敷の山中から決起

察度は、一三五〇年に即位すると、すかさず積年の蛉政を一掃して、国内は大いに治まったという。それから程なくして明の皇帝の来諭に応じて、経済上の思惑から初めて明と交易するようになった。すると南北の二王国も、中山に倣って明朝と交易するようになり、好戦的だった琉球人は平和を好むようになった。この機運に乗じて尚巴志が、佐敷の山中から決起して三山を統一したのだった。

伊波によると、尚巴志にも察度王のように平和的なところがあって、外国の船が鉄塊を積んで与那原港に入港すると、自分の保有していた名剣を売って、鉄塊を買い取り、これで農民たちに農具を造らせたので農民たちが心服するようになったという。こうした点から、彼が同胞の生活を向上させることに配慮していたことがわかるというわけだが、事実、彼は三山を統一すると間もなく、使いを明帝と室町将軍とに遣わし、また南洋や朝鮮との間でも交易を盛んにした。その結果、この時代は、琉球にとって精神的にも物質的にも最も幸福な時代であったであろう、と伊波は推測している。

しかし、尚巴志の死後間もなくして、王朝は、一大激動期を迎える。一四五八年には、「護佐丸の乱」「阿麻和利の乱」と称される戦乱があいついで起こった。それというのも、尚巴志の子孫が政策を誤り、常に被征服者を蔑視し、あらゆる方法をもって奴隷化しだからだという。つまり、被征服者はご武力以外の一切のものを認めようとはしない。つまり心服はしていない。したがって征服者が真に被征服者を征服してしまうために社、さまざまな社会の制度が必要というわけだ。

しかるに尚巴志の子孫は、あらゆる反逆的行為に対して、絶えず兵力を用いて苛酷に弾圧した。武力による弾圧は、彼ち自身に多くの困難をもたらしたほか、費用面でも一大負担をかける結果となった。その結果、尚巴志の死後わずか一五年間に四回も国王が代わったあげく、王位継承をめぐって内乱が起こり、ついに一四六九年に「世替り(革命)」を生む結果となる。要するに尚巴志の子孫は、比類なき武力を誇ったが、経済的基盤が弱く、しかも被征服者をうまく同化することもできずに、勃興してからわずか四〇余年、七代目尚徳の代で滅亡しためである。

こうして伊波は、かつて「つきしろの守り勢高さの真物美影照り渡て国や丸む」と偉大な気風を謳われた尚巴志の尚武的な王朝が、「食呉ゆ者ど我が御主」という安里の大親の「世謡」を合図にたやすく顛覆されてしまったと解説している。このような歴史的背景から、伊波普猷は、世に沖縄ほど食物の欠乏を感じてどれを与えうる治者を憧憬したところは少池かろう、といい、こういう入民が尚徳王のような好戦的な(国王)に愛想をつかしで、世替りを希望したのは無理毛ない。