2013年12月25日水曜日

学生による教師評価

確かに教える者と評価するものとが同一人であれば、学生の評価の公平性や客観性を保てなくなるおそれかおる。教授は学生を「教え、試験をし、資格を与えるという、大きな権限」を持っており、教授自身を評価する者は誰もいないことになる。この教える者と評価する者を分けるべきだという考えが、今日の学外者試験制度や全国共通試験制度のもととなった。アメリカでは州によっては、学生が三年生に進学する際に共通の学力試験に合格することを義務づけているところもある。

このような学外試験や共通試験は、学生に対する試験であると同時に、教授に対する評価でもある。特定の科目に対する試験による評価が、外部者によって、また共通のテストによって行なわれれば、学生の成果は他大学の学生のそれと比較され、ひいては教授の教育能力の評価にもなる。教授もまた恣意的な評価を下すことができなくなり、かつ学生を評価によって脅したりすることもできなくなる。

学生は入学許可、奨学金の受給、学業成績等については大学から評価を受けることはいうまでもないが、評価するのは教授だけではない。学生もまた自分の在籍している大学や、出席している授業やその教員を評価する。特に一九六〇年代末から七〇年代にかけて、学生による授業評価は全米的に広まって、ほとんどの有力大学で行なわれているようである。

一九八八年の春にハしハード大学を訪れたところ、大学の出版センターに一九八七~八八年度の"Course Evaluation Guide”があった。「学部課程教育委員会」発行の六〇〇ページを超える大冊である。ハーバード大学で開設されているほとんどの学部課程レベルの授業を対象とした授業評価集で、序文にはこの本はあくまでも学生の授業選択のためのガイドで、授業の質についての最終的な判定ではないと断っている。

これはひとつひとつの授業科目の全体的評価、興味の程度、教材の質、学習負担度、学生がこの科目に費やした時間、授業内容の難易度、成績のつけ方、授業の進度、教師の全体的評価というものを五段階評価で学生に判定させた結果と、学生がこの授業を選んだ理由、授業の改善すべき点、試験のやりかた、この授業を他人に推薦するか否か、といったことについての学生の意見をまとめたものである。

2013年11月5日火曜日

観光政策における決断

ネパールのようにポーターを生業とするシェルパがいないブータンでは、政府が農民を徴集し、なんとか解決した。徴集は、「ウラ」と呼ばれる伝統的な納税形態が適用され、合法的ではあった。しかし登山時期と秋の農繁期が重なるため、動員された農民は本来の生業である農作業ができなくなるという事態が生じた。国会でこの件が論議されたが、政府としては登山活動から生ずる外貨収入の重要性はないがしろにできず、ネパールから外国人季節労働者としてシェルパを雇い入れる案も検討されたが、決着がつかなかった。そこでしびれを切らした農民たちは国王に直訴した。その文言はいかにも農民らしく。

「仕事もない人たちの仕事のために、わたしたちは白分たちの仕事ができません」登山家にとっては、登山を「仕事もない人たちの仕事」と言われることは承服できないであろうが、農民にとっては農作業ができなくなったことは事実である。国王は即座に、農民を登山隊のポーターとして徴集することを禁じたために、以後登山隊の受け入れは実質上不可能となった。また、ブータン人の古来の信仰では、雪山は神聖にして冒すべからざる神々の座であり、登山はある意味で神々にたいする冒涜行為以外の何ものでもなかった。そうしたことも考慮した上で、国会は登山永久禁止条例を発令したため、ブータンの七〇〇〇メートル級の山々は、世界でも例外的に、現在に至るまで未踏処女峰のままである。

ほぼ同じ頃に、やはり観光に関連して、外国人観光客の僧院・寺院への立ち入りを許すかどうか、そして仏像・仏画の写真撮影を許すかどうかが問題となった。さきで述べたように、ブータン人にとって僧院・寺院は、僧侶にとっては修行の場であり、信者にとっては礼拝の場であり、仏像・仏画は、信仰の対象である。自明のことといえばそれまでであるが、同時にそれらはすべてブータンの最大の観光資源の一つであり、その見学・写真撮影は外国人観光客にとってはブータンの最大の魅力であることも事実である。この両者の立場の違いから、当然の結果として軋蝶が生じた。

観光局としては、ブータン観光最大の魅力、資源を利用することが禁じられれば手痛い打撃であり、部分的にせよ、何らかの形で見物・撮影が許可されるよう試み、様々な折衷案と措置が採られたが、政府の最終決断は、またしても全面禁止であった。外国人観光客は、ごく一部の、僧侶が居住せず、法要などがほとんど行われない寺院に限って、その境内に入ることが許可されたが、堂内はいっさい許されなかった。観光客が見物して、写真撮影できるのは建物の外観とお祭りだけとなった。この措置により、村びとたちは外国人観光客に邪魔されることなく、従来通りにお寺にお参りし、お祈りし、法要を営むことができるようになった。

ところが、こうした従来通りの伝統的な信仰形態が生きている仏教の姿が、外国人観光客にとっては、他の多くの形骸化した仏教圏にはない魅力として、ブータンをますますエキゾチックで魅力的な観光地としているのは、逆説的な結果である。観光に限らず、他のあらゆる面でも、国民の福祉・利益の最優先がブータンの近代化政策の基本である。教育と医療が原則的に全面無料という、発展途上国はもとより先進国でも例外的な制度が、現在でも維持されていることが、それを象徴しているであろう。




2013年8月28日水曜日

沖縄に住む資格はない

客が入らなきゃつまらない。こんな退屈なところに住むのはバカバカしいと、本土に帰る人や那覇に再移住する人があとを絶たず、いまや「リトル東京」は櫛の歯が欠けたように無人の家があちこちにできている。「移住」というのは一ヵ月や二ヵ月の単位ではない。平均寿命八〇歳とすれば、二〇年間を彼の地で過ごすことである。「海と夕陽」は二〇年も癒しつづけてはくれない。地域社会に溶け込もうとしない人に移住する資格はあるか。沖縄に移り住もうという人たちは、都会の喧噪やしがらみを離れて、のんびりと大自然の中で過ごしたいと思っているはずだ。だからだろう、移り住んでも、地元の人たちと交わろうなんて気はさらさら起こらないらしい。

石垣島でヤクザらしい男が愛人をつれて引っ越してきたが、半年も住んでいながら誰も顔をまともに見たことがなかったという話も聞いた。本土から移り住もうという人たちの心境は、彼らとそれほど変わらないに違いない。しかし、地元の住民にとって、これほど不気味で迷惑な話はない。最果ての地に住むなら別だが、先に人が住まうところに居を構えるなら、とりあえず先住者の習慣や文化を受け容れることが相手に対する礼儀だろう。ところが、辺境の地に、東京のマンションにでも住んでいる感覚を持ち込み、「移住」と称しながら、われ関せずとばかりに地元の人たちを避ける輩が少なからずいる。

たとえば石垣島に公民館があるが、これは本土の公民館とまったく違う。沖縄では貧しかったがゆえに集落の結束力が強いが、とりわけ八重山のような離島は、本島よりもさらに恵まれなかったから地域の結びつきが濃厚だ。そして地域全体として取り組む行事、たとえば祭りなどの儀式は公民館を中心として行われる。だから、地元の人たちが公民館活動に参加することは義務でもある。と、あらためて言うまでもなく、昔からそれが当然だった。この公民館活動をまとめるのが公民館長だ。地域社会の中心となって動くという意味で、その集落の村長のような存在である。たとえば、九九年に石垣島の吉原地区に移住してマンゴーなどを栽培している川上博久さんは、本土からの移住者でありながら、現在は吉原公民館の館長をされている。よほど地元に信頼されているのだろう。

川上さんによれば、吉原地区ではここ三、四年で二〇〇区画が売り出されて完売したという。現在は五〇世帯ほど暮らしているが、トラブルというほどでもないにしろ、先住者と移住者の間で気まずい関係が生まれつつあるという。「移住者には身勝手な人もいます。公民館は台風のときの避難先でもあり、この土地では欠かせない存在です。公民館を維持するために年会費を一万二〇〇〇円徴収していますが、移住者には『加入してもメリットない』『自分一人で生きていける』『頭を下げるのがイヤでここに来たのに、なぜ他人にお願いごとをしなくてはならないのか』などと言って、支払いを拒否する人がいるのです。今の移住者は、伊豆半島の延長線上に石垣を見ているのではないでしょうか。ここは本土とは違うのです。住環境も決して豊かではありません。それがわからない人には、もう来て欲しくないという気持ちです」

ちなみに彼らは、うるさく言うなら移住者だけで自治会をつくるぞと、別個に自治会をつくってしまったそうである。昔のように「ナイチャー帰れ」と言わなくなったのは、都市景観だけでなく、住民の意識もヤマト化が進んできたからだろうが、とは言っても、固有の文化を発展させてきた沖縄が、簡単に骨の髄までヤマト化するとは思えない。地域社会に溶け込もうとしない「ナイチャー」に拒絶反応を示すだろうし、そうなれば互いに気まずいだけだ。ナイチャーが地域社会と隔絶して独自に自治会をつくるのは、島人にとって米軍が沖縄に基地をつくるようなものだ。他人の土地にずかずかやってきて、フェンスを張って隔離社会をつくる。基地に住む兵士と、マンションに住む感覚でやってきた移住者にどれはどの違いがあるのだろう。そんな単純なことに気づかない移住者は、沖縄に住む資格はないのだと思う。



2013年7月4日木曜日

「出生率上昇」では生産年齢人口減少は止まらない

もちろんこの夢想は、一部の工学関係者だけが共有しているわけではない。モノづくりに何の関係もない文系にこそ、人頼みと中しますか理系への責任転嫁と中しますか、「モノづくりさえ何とかなっていれば日本はなんとかなる」という安直な信仰に染まっている人が多いですね。ですが、モノづくり技術を際限なく革新して、今後も常に日本の製造業が世界の最先端に君臨し続けたとしても(私としてはそれはそれでぜひそのようになって欲しいものですが)、「生産年齢人口減少に伴う内需縮小」という日本の構造問題はまったく解決されません。日本の製造業が競争力を保って輸出を続けることは、生産年齢人口減少のマイナスインパクトに抗するための三つの目標(一七七-一七八頁)に直接まったく貢献しないからです。この間までの「戦後最長の好景気」の下で起きたことをみれば自明です。

もちろん私は「モノづくり技術の革新」の重要性自体は、一言も否定していない。ただ「それは日本が今患っている病の薬ではない」と言っているのです。モノづくり技術は誰が考えても、資源のない日本が外貨を獲得して生き残っていくための必要条件ですが、今の日本の問題は外貨を獲得することではなくて、獲得した外貨を国内で回すことなのです。そのためにはお話ししてきた三つの目標が不可欠であって、「モノづくり技術の革新」はそこのところには直接の関係がありません。いろいろな議論を見ていると、「エコ分野の技術で世界をリードすることに日本の活路がある」というような論調が目立ちます。エコ分野の技術革新は人類が滅びないためにはもちろん極めて重要です。

それを実現することで日本メーカーの活路も拓けましょう。同時に日本経済の活路も拓けるのであれば本当に良かったのですが。でも、たとえば仮に電気自動車や燃料電池車で日本メーカーが世界のトップに君臨できたとして(私としてはぜひそのようになって欲しいものですが)、日本の輸出が伸び外貨が国内に流れ込んできたとしましよ゛う。残念ながらそれは、この間までの「戦後最長の好景気」を再現するだけのことなのです。技術の果てを極めた日本製のガソリン車やいろいろな機械、デバイスが世界を席巻し、〇〇-〇七年の七年間だけで日本の輸出が七割も増え、税務申告された個人所得が〇四-〇七年にバブル期に迫る水準にまで増加し、にもかかわらず小売販売額は一円も増えなかった、日本国内の新車登録台数に至っては二割以上も減ってしまったという、あの七年間を。

そう話すと必ず出てくるのが、「そんなことを言っているが、エコカー技術で諸外国に後れを取って、外貨が稼げなくなったらどうする気だ」という意見です。先のことまでよくご心配です。もちろんそうならないために、ぜひにも技術開発は全力で続けて、日本企業には最先端に立っていただきたい。でも首尾よくそうなっても、稼いだ外貨が内需に回る仕組みを再構築しない限り、外貨が稼げずに死ぬということになる前に、外貨が国内に回らないことで経済が死んでしまうのです。つまり日本は、技術開発と内需振興と、同時に別々のことをしなくてはならない、そういうことです。その際に、昔から得意な技術開発の方ばかりに目が行って、内需振興がついついお留守になるという事態は、ぜひ避けていただかねばなりません。

なにぶん日本には、製造業の技術力のおかげで、国債になってしまっている分を除いても四〇〇兆-五〇〇兆円の個人金融資産があります。毎年十数兆円の金利配当も流れ込んでいます。つまり皮下脂肪が十分溜まっていて、絶食してもそうそうI〇年、二〇年で飢え死にするようなことにはならないのですから、何も不安になることはないのです。安心してもっとバランスの取れた行動、つまり技術開発に関係なく進む生産年齢人口減少という課題を直視した行動を取るべきなのです。それでは、生産年齢人口が減るペースを少しでも弱めよう」という目標を直視して、「何とかして出生率を上げる」のはいかがでしょうか(以下では世間の慣行に従って、女性一人が生涯に産むであろう平均的な子供の数=合計特殊出生率を、「出生率」と呼ぶことにします)。



2013年3月30日土曜日

アマチュア写真家

数あるコンテストの中でも日本最大規模を誇る「富士フイルムフォトコンテスト」は、毎年、全国のアマチュア写真家から作品を募っていますが、四十回目を迎えた二〇〇〇年は六万二千点が寄せられたといいます。入選作品は写真集にまとめられていますが、日本を訪れる外国人旅行者の中には、わざわ芦この写真集を日本土産に買って帰る人もいるそうです。全国から集まった六万点を超す応募作品の中から選ばれたものですから、日本の現代の姿を写した、鮮度の高い映像であるのは間違いありません。これをお土産に選んだ人に、心から敬意を表したいと思います。

写真教室や同好会に入れば、たいてい仲間うちの作品発表会がありますが、個人で写真展を開こうと思うとなかなか大変です。会場の問題もさることながら、個展となればそれなりの統一テーマが必要ですから、点数を揃えるだけで、どうしても数年はかかります。個展をする気などなくても、自分の好きなテーマを見つけて撮っているうちに、個展を開くチャンスが舞い込むことも、ないわけではありません。そんなときは、思い切ってチャレンジしてみることです。多くの人に作品を見てもらって意見を聞くことは、勉強にも励みにもなるからです。もし個展を開きたければ、フォトサロンやギャラリーの情報が載っている小雑誌(「フォトステージ」カメラ情報社)もあります。

勉強といえば、写真展も参考になります。筆者も新宿や銀座に出たときは、できるだけ多くの写真サロンやギャラリーをのぞくようにしています。そんな折、フォトハイキングという言葉を耳にしました。富士写真フイルムが、四月~十月の日曜日と休日に、全国各地で開催している撮影会です。一回の参加費用は三千円前後から食事付きまでとさまざまですが、「地元を撮ろう」と銘打ったこのフォトハイキングは、室内でむずかしい講義を聞いているよりずっと楽しく、勉強にもなるということで、年を追うごとに女性の参加者が増えているそうです。

先生といっしょに歩きながら具体的な被写体を探し、使用するレンズやフレーミングなどについての指導を受けるという新しいかたちの撮影会で、教室では恥ずかしいと思って聞けなかったことも、開放感から気軽に質問ができるということで、いまやいちばんの人気だそうです。東京では、○○サロンと名がつくのが、フィルムやカメラの大手メーカーやカラーラボが運営する写真ギャラリーです。出展希望者はプロ、アマを問わず、作品で審査されます。他のギャラリーも似たりよったりのシステムです。

出展が決まると、ギャラリーによっては、専属のディレクターが写真展のメッセージづくりの相談に乗ってくれるところもあります。真剣に自分の方向を見つけたいと思っている人は、このような作家を育てようという意欲のあるギャラリーに作品を持ってゆき、チャレンジをしてみるのもいい勉強になります。展覧会場は銀座や新宿にかぎりません。筆者の住んでいる街にも、銀行のロビーや喫茶店を兼ねたギャラリーがいくつかあります。他人が撮った古い写真も自分にとっては目新しい、ということは、自分には見飽きた写真でも他人には新鮮に見えるということでもあります。

アマチュア写真家の写した写真展をあちこち見て回っていると、撮った本人は気づいているかどうか分かりませんが、思わずヒザを打ちたくなるような写真に出会うことがあります。写真の上手い下手は、表面だけを見ていても分かりません。大切なのは写真の中身、写そうとしたものを確実に捉えているかどうかです。露出もピントも正確、構図もいい、プリントもきれいで申し分ない、確かに上手い写真だが、少しも心に響かない、そんな写真が氾濫しています。その一方で、本人には自信がなくても、良い写真が撮れているということはいくらでもあります。