2015年7月3日金曜日

監視下の組合選挙

入社から二年ほどして、組合批判の発言をしたところ、夜勤からはずされてしまった。そればかりでなく、同期に入社した労働者とくらべて、昇給が不当に差別されているので、所属課長に抗議した。「組合に批判的だからといって、昇給で差別するのは、不当労働行為ですよ」課長は、こう答えたのだった。「不当労働行為? 笑わすんじゃないよ。おまえなあ、いまの日産ディーゼルがあるのは、誰のおかげだと思ってるんだ。労働組合のおかげじゃないか。その労働組合に反対する奴の給料が安くったってあたりまえだろう。労働組合のおかげで、会社のいまの発展があるんだからな」嘉山さんの賃金(一九八二年当時)は、つぎのようなものである。

基準賃金のうち、退職金などの算定基準となる基本給が一七パーセント程度しかなく、第二基本給というべき「特別手当」が七三パーセントもの比重を占めているのが、日産型賃金の特徴である。資格手当の基準となる職級は、組合に協力的でなければあがらない。夜勤も会社(組合)に協力的なものの権利である。残業、休出がなければ、彼らのような悲惨ともいえる賃金になる。基本給でさえ査定される。平均一万三〇〇〇円の賃上げのときでも、リンチにくわわったものは、一万七〇〇〇円ほどにハネ上がる。
 
嘉山さんが、公然と組合に反対したのは、一九七四年の賃闘のときからである。このときは妥結額をめぐって、職場に不満がくすぶっていた。それまでは、満額回答で、労使協調のうるわしさがそこなわれることもなかったのだが、前年の暮から、オイルショックとなり、不況に突入していた。反対の挙手をすると、まわりから罵声がとんだ。「てめえ、反対しやかって」「馬鹿やろう、なめるんじゃねえよ」「反対なら、てめえひとりでやってみろよ」彼がはなすのをさえぎって、本当にそういったんですか、とわたしはたずねた。信じられない言葉だからである。彼は、「そうですよ、いつもそうですよ」と軽く答えた。それでも信じられない話である。わたしの知っているトヨタの労働者たちは、もうすこしおとなしかったからである。一定の条件のもとでは、やはり彼らもまたこのような、露悪家になるのだろうか。

何日かたって、彼を除いた職場の同僚たちは残業のあと、「職場を明るくするため」の研修をうけるようになった。「嘉山は赤軍派だから口をきくな」「飯を一緒に食うな」。そんな教育がはじまった。村八分である。それでも、職場からの批判派として、東さんや小宮さんが出現し、三人は連絡をとりあうようになった。職場会で、「質問はありませんか」と組合役貝がおざなりにたずねると、嘉山さんは、「ハイ、ハイ」とまっ先に手をあげ、指名されるまでもなくたちあがってしゃべりだす。労働者たちは、口にだして同調することはないにせよ、職場に帰ってくると、手を振ったり、片目をつぶってみせたりする。不満がたかまっていたので、彼の発言は支持されていたのである。だからこそ、みせしめのためのリンチがはじまったのである。

日産の労務管理を特徴づけているのは、日産労組の存在である。毎年八月末には、第二組合を旗あげした「ゆかりの地」、浅草国際劇場で記念総会がひらかれる。塩路自動車労連会長が演説し、組合長が演説し、社長が挨拶する。八二年の「総会宣言」でも、やはり労使協調が強調された。「日産労組は、二十八年前、他に先がけて労使協議制度をとり入れ、技術革新への対応をはじめ、生産性の問題に取り組み、今日の日産ひいては自動車産業の発展をもたらした……」