2014年4月17日木曜日

軍拡の政治構造

さっき引用されたアインシュタインに代表されるような、核戦争による人類絶滅の危険についての危機意識、それが第二次大戦後、軍縮を要求するさまざまの努力や運動を支えてきました。この危険は、今日もなおつづいています。ただこの危機を生み出した要因は何かという点になると、人により解釈や力点が多様であり、また戦後の時期によっても解釈や力点が変化してきました。いま必要なのは、それらを全体としてとらえる視点を持つことだろうと思います。

第二次大戦後まもなくから一九五〇年代の末ごろまでの、いわゆる「冷戦」期には、軍備競争や戦争の危機は、何よりも米ソの間の対立や不信、つまり米ソ両陣営にとって対外的脅威があることに起因するという考え方が一般的でした。ところが一九六〇年代に「デタント」と呼ばれる平和共存のシステムが曲りなりにでき上がった時に、二つの問題が表面化してきた。一つは、東西の間の政治的緊張が緩和したにもかかわらず軍備増強や軍備競争が続くという事実が誰の目にも明らかになったことです。そうすると、軍備競争を米ソが自己の対外的・軍事的な安全の維持手段としてやむをえず行なってきたという理由づけは疑わしいということになる。そこで、米ソの内部に軍備競争を支える政治・経済的要因があるのではないかという問いが提起されることになりました。

もう一つは、平和共存とかデタントというのは米ソ中心の国際秩序の現状維持を意味し、この国際秩序の現状変革を必要とする勢力、とくに「第三世界」にとって不利なシステムではないか、という問題が表面化してきたことです。そうすると、米ソによる「デタントのもとでの軍拡」は、第三世界への米ソの優位を保つためのもので、米ソ相互に向けられたものではないのではないか、極言すれば第三世界に対する米ソの共同支配のための手段ではないかという問いが提起されることになりました。

そこで軍備競争は、いったい誰が、誰のどういう利益のためにつづけているのかが、当然問われなければならなくなります。つまり軍拡あるいは軍縮の問題を、国家単位の軍事的な安全保障のレヴェルだけに限定するのではなくて、国内構造も含めて、もっと政治的な問題としてとらえなおすことが必要になってくる。したがって、軍縮を考えるために、まず軍拡の政治構造を全体的にとらえる、そういう視点がどうしても必要になってくるわけです。

こういう視点に立って、現代の軍拡、あるいはその直接の媒体をなしている軍備、つまり兵器の開発、実験、生産、配備、使用、およびそれにかかおる組織などを一括して「軍備」と呼ぶとしますと、そうした軍備がいったいどういう政治的機能をはたしているのかを、解明する必要がある。そこで、ごく巨視的に見た場合、私は軍備体系が五つのレヴェルで、それぞれに特有の政治的機能を営んでいると考えます。世界の軍備体系を全体として大きな一つのシステムとして考えて、上のほうから順々に見ていきますと、まず第一に、いちばん上のレヴェルに、軍事的超大国である米ソ内のいわゆる「軍産複合体」といわれる権力組織があります。

もちろんこれは米ソ以外の軍事的先進国にもありますが、世界的な軍備体系を支える代表的で中核的なものは、楊兵器とか、超近代兵器の開発・実験・生産などの推進力になっている、米ソ両超大国の軍産複合体です。これはそれぞれに巨大な権力集団を構成している。「軍産」だけではなくて「官」、つまり官僚集団、あるいは「学」、つまり学界など、さらに範囲を拡げて考えることも可能ですが、とにかくそういう権力複合体があります。社会主義の場合には、資本主義と同じ意味で軍産の複合体があるのでないことは自明です。経済システムがちがうのですから、私的企業と軍や官が複合しているということはありえない。