日本人は昔から唯一の神ではなくて、森羅万象に尊崇の念を抱いて生きてきました。自然のまにまに生きている人間はコミットはしません。
コミットするというのは、日本の美学に反するところがある。だからでしょうか、日本語には「コミット」に対応する適当な訳語が見つかりません。
川寄さんならずとも、改めて「コミットとはなにか」と聞かれても、日本人ははっきり答えることができないわけです。
しかし、日本もだんだん西洋化されてきましたから、われわれとしても、コミットの意義を考えてみる必要が出てきました。
「コミット」がプラスの意味に使われるようになると、どうしてもコミットのレベルが浅くなりがちです。たとえば、「借金で困っている」というクライエントが来たときに、「では、私がお金を貸しましょう」と言ったのでは、クライエントはそれによりかかってきて根本的な解決にはなりません。
このようなコミットのしかたではレベルが低く、いわば「小さな親切、大きなお世話」といった感じになってきます。
私たちがクライエントにコミットする場合には、川寄さんも言われるように、外的現実ではなく、心理的にコミットすることになります。借金で困る人生を私自身が内的にどれほど生きるかということになります。
通常、コミットという言葉が外的現実についてのみ使われすぎていますから、コミットのレベルというものをよく考えなければならないでしょう。