2016年3月3日木曜日

政治・行政機能と経済機能を分離

初めは、皇居をふくめ。すべての中央官庁と最高裁が移転し、跡地は売りに出し、東京の再開発に回し、跡地の売上げは新首都の建設費の一部にするという「遷都」論だった。ところが、具体化に動き出した一九八〇年代後半になって、自民党の長老議員や保守派とされる議員から「遷都とは天皇陛下も新首都にお移しすることを意味する。地価の高騰と首都の過密問題は別に解決すべきで、陛下に累を及ぼすのは反対だ」と異議がでた。こうした声に押されて、遷都論は「首都機能移転」という言葉に置き換えられた。

変質はこれが始まりだった。先にふれた国土庁の「懇談会」が一九九二年六月に発表した「とりまとめ」は、「移転に当たっては、政治・行政機能と経済機能を分離することを原則とし、政治・行政機能に純化した新首都を想定する」とうたった。

これは、一九七七年に閣議決定された第三次全国総合開発計画で、経団連などの各種経済団体や労組本部など経済の中枢の移転も想定していたのを否定したものだ。経団連などが国会や中央官庁といっしょに引っ越せば、企業の本社機能も移転する可能性もあり、過密の解消につながるというのが遷都論者の主張だった。それが、一極集中の最大の原因だった経済活動はそのまま東京に残ることになったのだ。

そして、その後は、政治・行政の一体的な移転すら棚上げになってしまった。つまり、先ほどみた宇野調査会の「最終報告」は、実は、首都機能の移転は、規制緩和や地方分権といった「国政全般の改革を補完し、加速し、定着させようとするものでありそのために極めて効果の大きい影響力をもつ物理的・具体的な手段」だと強調しているのだ。新首都問題はついに国政改革のシンボルにされ、首都機能そのものの移転はますます影がうすくなった。