2014年11月4日火曜日

アウトローな法律の使い方

日本の法律では、ナマの力をもって勝手に権利を行使する「権利の実現」は、禁じられています。これを我々法律家は「自力救済の禁止」と呼びます。もしそれをやってしまうと、窃盗罪とか、暴行罪とか、住居侵入罪とか、ケースバイケースでいろいろな犯罪が成立することになりかねません。

従って、「まともな人」は、そういうことはなかなかできないこと
になっているわけです。「まともな人はどうしたらいいのか」といえば、まさに「正しい手続」を踏まなければならないわけで、その正式な手続が「裁判」というものなのです。この手続がうまくいかないと、「本当は権利かおる」とか、「法律によるとこういうことになっている」とか主張しても、あまり意味かおりません。

実際のところ、日本では、せっかく立派に見えるような法律とかさまざまな権利とかがあるはずでありながら、それがあまり役に立たないというのは、実はこの「手続」の欠陥に大きな原因があるのです。そして、意外に思われるかもしれませんが、法律を作るような人たちも含めて、手続に関する意識やセンスについて、日本人はとても甘いということがあるのです。

では、「まともでない人々」には?「まともな人」のためには、しっかりとした正しい手続が法律で決められていますが、そういう手続とは全く無縁の、アウトローな人たちもいます。言ってみれば「まともでない人たち」で、要するに暴力などによって自分たちの欲望なり願望を達成してしまう人たちです。彼らにいわせれば、彼らなりに「筋を通す」「落とし前をつける」ということでしょう。

こういう人たちも、自分たちに都合がいいときには法律を持ち出します。しかし、本当は、正義が全体としてどうだとか、公平であるかとか、正当な権利がどうだなどということには、あまり関心がありません。ただ、自分に都合がいい法律や権利だけを気まぐれに持ち出して、「まともな人」が正義を実行するのをブロックしたりしますから、そういうことにはやけに関心が高いというのは、先はども説明した通りです。

2014年10月3日金曜日

動物や植物とともに命を大切にして生きる

このようにみてくると、一般の市民や若者にとっての豊かさとは、地球市民としてすべての人が共通に持っている、ある「生き方」の実現なのではないかと思えてくる。それはアフリカの飢餓救援のため、世界を結んで行われたロックーコンサートの大合唱、「ウィーアー・ザーワールド」の歌を思い出させるものがある。ぼくらが世界。希望の未来をつくるのはぼくら。いま救援の手をさしのべるのはだれのためでもない、ぼくら自身のため。

アフリカの飢餓救援のため、延ベー六時間におよぶ大がかりなロックーコンサートが、一九八五年夏、ロンドンとフィラデルフィアの会場をテレビで結んでおこなわれ、世界中に中継された。「ライブーエイド」と名づけられたこの催しをよびかけたのは、アイルランドのロックースター、ボブ・ゲルドフである。コンサートは、ロンドン会場で人気バンド、ステータスークオによる「ロッキンーオールオーバー・ザーワールド」の演奏ではじまり、フィラデルフィア会場での「ウィーアー・ザーワールド」の大合唱で終わった。

テレビ放送中にくりかえし寄付のよびかけがおこなわれた。主催者の発表によると、放送料、入場料、電話による寄付申しこみをふくめ総額五〇〇〇万ポンド(当時の為替レートで換算、約一六五億円)ものばくだいな救援金が一度きりのマラソン公演で集まった。コン サートは通信衛星を利用して日本にも生中継され、募金の訴えに応ずる視聴者からの電話が放送局に殺到した。

また、もっと幼い子どもたちの声を集めたヘレンーエクスレイ編『美しい地球をよごさないで』その本には世界の七十力国以上の子どもたちの文章や絵がまとめられており、その前書きには、国がちがっても、子どもたちの考えていることは、みな同じでした。五〇〇〇にものぼる子どもたちの作品の中で「人間が生きるためなら、何をしてもいい」といっている作品はひとつもありませんでした。どの文章や絵からも、命あるものを大切にし、いつくしみ、この美しい地球をみんなで共存できる世界にしようという思いが伝わってきます。というエクスレイの言葉が書かれている。

子どもたちが、そこで語っている豊かさや、しあわせの意味は、開発による環境破壊や戦争や核による恐怖をなくして、動物や植物とともに、命を大切にして生きること、つまり地球の豊かさである。それは、最大限に多くのものが大切にされ、生きていくこと、を意味している。「しあわせとは、まわりのものを大切にすること、できるだけ傷つけないようにすること。ただたんに、ものを大切にすることなんです」「わたしは、らっぱずいせんがさいているだけで、しあわせ」

2014年9月3日水曜日

大学は不死身か

大学はヨーロッパ中世の発明とされるが、ニ一世紀以来二〇世紀末の今日までに原型をとどめたまま存続してきたという意味では、最も強靭な社会制度のひとっであろう。アメリカ大学界の代表的指導者クラークーカーは、「万物は流転し何物も持続しない」というヘラクレイトスの言葉は、「ただしほとんどの大学は存続している」という例外を付さなければならないという。

ヘラクレイトスによれば、一五二〇年までに西洋世界で確立された制度のうちで、二〇世紀の今日までに、基本的機能も変わらず、歴史的な断絶もなしに原型をとどめたまま存続しているものは八五ほど存在するが、このなかにはカトリック教会、マン島、アイスランド、グレイトーブリテソ島の議会、いくつかのスイスの郡、そして七〇の大学があるという。

かつて支配権を振るっていた王権は今や君臨するだけのものとなり、家臣を従えた封建領主、独占権を握るギルドも皆歴史の彼方に消え去ってしまった。しかし大学だけは、今でも創設されたと同じ場所に居すおり、昔ながらの同じ建物が用いられ、教授や学生はおおむね昔と同じようなことを営み、大学の管理の仕方も昔とほとんど変わりのないやり方で行なわれている。

時代や国によって多少のバリエーションはあるにしても、大学の永遠の機能は教育、学術研究、社会サービスないしはそれらとの祖み合わせである。つまり、大学は他の社会制度と比べて最も変化なしに今日まで存続してきた制度だ、というのである。

実際、大学がいかにその原型を継承しているかは、例えば講義や演習といった授業の方式、学年暦、学位授与権、試験の方法、学寮、学部、一定の自治権を持つ教授団……といった、今日の大学の特徴をなすものが、すべて中世の発明であったことからも明らかであろう。書物が高価で入手し難かったその当時には、授業では教授は自分しか持っていない書物や講義録を読み上げ、これを学生が忠実に筆記した。

これが大学の最も一般的な授業形態である講義の始まりなのだが、いくらでも本が出版され、コピーもビデオも通信衛星すら利用できるようになったマルチメディア時代になっても、現代の大学の授業では、教授が重々しくノートを読み上げると学生はひたすらノートをとるという素朴で古めかしい伝統が、後生大事に守られているのである。