それは「周辺事態協力」日米の「役割・任務・能力」における分担)でなされた合意に、「兵力態勢の再編」と「基地の再編」という実体を与えるものであった。一〇月末に日付が集中したのも偶然でない。いずれも、五年余に及んだ小泉劇場政治の、いわば。安保協力版決算リストにあたる。憲法と安保の相克関係が、また振動した。なかでも二九日、日米安保協議委員会で採択された「日米同盟未来のための変革・再編」文書には、自衛隊の変容=従属の深化が、米軍とともに「海外で戦争できる」、「米軍に一体化・融合していく」行動目標として記された。「国際的な安全保障環境の改善-自衛隊および米軍は、国際的な活動における他国との協力を強化する」という一節に、それはあらわれている。
この一〇月の三日間により、自衛隊と憲法、米軍と在日基地、そして自衛隊と米軍のあり方に長期的な転換をもたらす方向が示されたのである。日付を追ってみよう。まず二七日。東京のアメリカ大使館は、「原子力空母ジョージーワシントンを二〇〇八年以降、横須賀米軍基地に配備する」と通告した。手続きからいうと、在日米軍兵力の変更は、日米安保条約の交換公文に「配置における重要な変更は事前協議の対象とする」と明記されている。「海軍の場合は一機動部隊程度」が基準とされ、空母の母港化は日本政府との協議を要する。にもかかわらず事前協議の申し入れはなかった。一片の通告をもって、東京湾に原子力空母(中型原発の出力に相当する馬力)を常駐させる決定がなされたのである。事前協議制度の空文化のみならず、非核三原則(核を持たず・作らず・持ち込ませず)の崩壊にもつながる。
さらに原子力基本法(平和利用と民主・自主・公開原則)にもかかわる重大事が、安全審査や環境評価もされないまま、いとも軽々と扱われた。横須賀市には、原発設置予定の自治体がもつほどの発言権すら与えられなかった。そもそも、一国の首都の港に外国軍隊の最強艦の定係港を認めるなど、植民地以外にはありそうにないことだ。しかるに、政府はそれを抑止力の強化として歓迎さえした。一方、横須賀に司令部を置く第七艦隊にすれば、ジョージーワシントンの横須賀常駐は、海上自衛隊の自衛艦隊とのあいだに密接な関係を築くのに都合のいい環境を得たことになる。「新ガイドライン」には「米軍による自衛隊基地の使用」も規定されていた。周辺事態協力における「役割・任務・能力」の分担が基地行政に及んだことになる。
翌二八日「自民党新憲法草案」が発表された。そこには「自衛軍の創設」と「集団的自衛権行使の容認」が明記されていた。一九九〇年代に進行した自衛隊の海外派兵、憲法と現実の乖離を、最高規範の変更によって最終解決するこころみである。これも日米の「共通戦略目標」と無縁ではない。「草案」から関係部分を拾うと、前文から「国家不戦の決意」が消された。かわって「日本国民は、帰属する国や社会を自ら支え守る責務を共有し……」に書き換えられた。第九条のタイトルが、「戦争の放棄」から「安全保障」に改められた。集団的自衛権行使に向けた布石であると容易に想像つく。
九条二項に「自衛軍保持」や「国際的に協調して行われる活動」への参加を明記した。具体的な内容は、「法律の定めるところによる」とされ、範囲は定かでない。第七六条三項で「軍事裁判所」が新設されることになる。「軍法会議」が復活する。ここでも「内容は、法律の定めるところによる」としている。第二一条「公共の福祉」が「国民の責務、公益、公の秩序」といった表現にかわった。「国防の責務」が地域と民間を覆う。
2015年6月3日水曜日
2015年5月8日金曜日
家庭電子機器市場の拡大
家庭電子機器では、一九九六年にDVDが売り出されて、家庭電子機器市場がさらに膨れ上がるとも見えた。画像では従来のVHSの二倍以上の解像度があるために画像の鮮明さが増し、さらに特定の音声や音楽だけを大きくしたり小さくしたりすることも可能である。しかしDVDは従来のCDやビデオと競合し、それらの市場を奪いはするが、従来の音楽や画像の市場を新しく飛躍的に拡大するほどのものではない。家庭電子機器の市場が拡大するとすれば、情報スーパーハイウェイの端末としてのパソコン、続いて携帯電話の情報端末の普及が、それに最も貢献するのではないか。
この年には、電子機械工業全体の生産額が二四兆円をこえて、自動車および輸送機械工業のそれを約一兆円上回った。この前の年、一九九五年には携帯電話などの移動通信の設備投資額が一兆円をこえ、同年の鉄鋼業のそれを抜いた。一九六〇年代までは、鉄鋼業は日本の高度経済成長の推進軸で、「鉄は国家なり」とさえ言われたものだ。経団連の会長も鉄鋼業界から出るのが当然のように思われていた。しかし今は、その鉄鋼業が携帯電話の風下に立つと見えるほど、時代は変わった。その内容は、通信サービス、放送サービス、テレビ・ラジオ・パソコン・携帯電話などの端末機器、テレビやラジオなどの番組、ビデオ・CD用の映画その他のソフト、インターネットを介しての情報処理や商品の売上額等々である。アメリカでは、ゴアの情報スーパーハイウェイの構想に見るように、すでにこのような情報通信産業が経済発展の主軸になっており、そのすべてをコンピュータのネットワークが結合しつつあるが、日本もまたその後を追うことは確かである。
この年には、電子機械工業全体の生産額が二四兆円をこえて、自動車および輸送機械工業のそれを約一兆円上回った。この前の年、一九九五年には携帯電話などの移動通信の設備投資額が一兆円をこえ、同年の鉄鋼業のそれを抜いた。一九六〇年代までは、鉄鋼業は日本の高度経済成長の推進軸で、「鉄は国家なり」とさえ言われたものだ。経団連の会長も鉄鋼業界から出るのが当然のように思われていた。しかし今は、その鉄鋼業が携帯電話の風下に立つと見えるほど、時代は変わった。その内容は、通信サービス、放送サービス、テレビ・ラジオ・パソコン・携帯電話などの端末機器、テレビやラジオなどの番組、ビデオ・CD用の映画その他のソフト、インターネットを介しての情報処理や商品の売上額等々である。アメリカでは、ゴアの情報スーパーハイウェイの構想に見るように、すでにこのような情報通信産業が経済発展の主軸になっており、そのすべてをコンピュータのネットワークが結合しつつあるが、日本もまたその後を追うことは確かである。
2015年4月3日金曜日
佐敷の山中から決起
察度は、一三五〇年に即位すると、すかさず積年の蛉政を一掃して、国内は大いに治まったという。それから程なくして明の皇帝の来諭に応じて、経済上の思惑から初めて明と交易するようになった。すると南北の二王国も、中山に倣って明朝と交易するようになり、好戦的だった琉球人は平和を好むようになった。この機運に乗じて尚巴志が、佐敷の山中から決起して三山を統一したのだった。
伊波によると、尚巴志にも察度王のように平和的なところがあって、外国の船が鉄塊を積んで与那原港に入港すると、自分の保有していた名剣を売って、鉄塊を買い取り、これで農民たちに農具を造らせたので農民たちが心服するようになったという。こうした点から、彼が同胞の生活を向上させることに配慮していたことがわかるというわけだが、事実、彼は三山を統一すると間もなく、使いを明帝と室町将軍とに遣わし、また南洋や朝鮮との間でも交易を盛んにした。その結果、この時代は、琉球にとって精神的にも物質的にも最も幸福な時代であったであろう、と伊波は推測している。
しかし、尚巴志の死後間もなくして、王朝は、一大激動期を迎える。一四五八年には、「護佐丸の乱」「阿麻和利の乱」と称される戦乱があいついで起こった。それというのも、尚巴志の子孫が政策を誤り、常に被征服者を蔑視し、あらゆる方法をもって奴隷化しだからだという。つまり、被征服者はご武力以外の一切のものを認めようとはしない。つまり心服はしていない。したがって征服者が真に被征服者を征服してしまうために社、さまざまな社会の制度が必要というわけだ。
しかるに尚巴志の子孫は、あらゆる反逆的行為に対して、絶えず兵力を用いて苛酷に弾圧した。武力による弾圧は、彼ち自身に多くの困難をもたらしたほか、費用面でも一大負担をかける結果となった。その結果、尚巴志の死後わずか一五年間に四回も国王が代わったあげく、王位継承をめぐって内乱が起こり、ついに一四六九年に「世替り(革命)」を生む結果となる。要するに尚巴志の子孫は、比類なき武力を誇ったが、経済的基盤が弱く、しかも被征服者をうまく同化することもできずに、勃興してからわずか四〇余年、七代目尚徳の代で滅亡しためである。
こうして伊波は、かつて「つきしろの守り勢高さの真物美影照り渡て国や丸む」と偉大な気風を謳われた尚巴志の尚武的な王朝が、「食呉ゆ者ど我が御主」という安里の大親の「世謡」を合図にたやすく顛覆されてしまったと解説している。このような歴史的背景から、伊波普猷は、世に沖縄ほど食物の欠乏を感じてどれを与えうる治者を憧憬したところは少池かろう、といい、こういう入民が尚徳王のような好戦的な(国王)に愛想をつかしで、世替りを希望したのは無理毛ない。
伊波によると、尚巴志にも察度王のように平和的なところがあって、外国の船が鉄塊を積んで与那原港に入港すると、自分の保有していた名剣を売って、鉄塊を買い取り、これで農民たちに農具を造らせたので農民たちが心服するようになったという。こうした点から、彼が同胞の生活を向上させることに配慮していたことがわかるというわけだが、事実、彼は三山を統一すると間もなく、使いを明帝と室町将軍とに遣わし、また南洋や朝鮮との間でも交易を盛んにした。その結果、この時代は、琉球にとって精神的にも物質的にも最も幸福な時代であったであろう、と伊波は推測している。
しかし、尚巴志の死後間もなくして、王朝は、一大激動期を迎える。一四五八年には、「護佐丸の乱」「阿麻和利の乱」と称される戦乱があいついで起こった。それというのも、尚巴志の子孫が政策を誤り、常に被征服者を蔑視し、あらゆる方法をもって奴隷化しだからだという。つまり、被征服者はご武力以外の一切のものを認めようとはしない。つまり心服はしていない。したがって征服者が真に被征服者を征服してしまうために社、さまざまな社会の制度が必要というわけだ。
しかるに尚巴志の子孫は、あらゆる反逆的行為に対して、絶えず兵力を用いて苛酷に弾圧した。武力による弾圧は、彼ち自身に多くの困難をもたらしたほか、費用面でも一大負担をかける結果となった。その結果、尚巴志の死後わずか一五年間に四回も国王が代わったあげく、王位継承をめぐって内乱が起こり、ついに一四六九年に「世替り(革命)」を生む結果となる。要するに尚巴志の子孫は、比類なき武力を誇ったが、経済的基盤が弱く、しかも被征服者をうまく同化することもできずに、勃興してからわずか四〇余年、七代目尚徳の代で滅亡しためである。
こうして伊波は、かつて「つきしろの守り勢高さの真物美影照り渡て国や丸む」と偉大な気風を謳われた尚巴志の尚武的な王朝が、「食呉ゆ者ど我が御主」という安里の大親の「世謡」を合図にたやすく顛覆されてしまったと解説している。このような歴史的背景から、伊波普猷は、世に沖縄ほど食物の欠乏を感じてどれを与えうる治者を憧憬したところは少池かろう、といい、こういう入民が尚徳王のような好戦的な(国王)に愛想をつかしで、世替りを希望したのは無理毛ない。
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